立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2024.04.12

<懐かしの立命館>勝敗の無い運動部~立命館中学校ワンダーフォーゲル部~

中学ワンダーフォーゲル1
【写真1】創部者で顧問の野崎教諭と創部2年目の生徒たち
(1968年3月卒業アルバム)

1.ワンダーフォーゲルとは
 現代のスポーツには、健康維持を目的として楽しむスタイルが増えてきています。しかし、学校の運動部といえば、団体や個人ともに勝敗を決定する競技が一般的で、勝利に固執するあまりに指導がエスカレートして問題化する場合もあります。
 そうしたなかにあって、異色の存在であったのがワンダーフォーゲル部で、ワンダーフォーゲルは、「渡り鳥」という意味をもつドイツ語で、野山を旅し、自然のなかで独立の精神を育むことを趣旨として始められたとされています。歴史的には、国民の身体を鍛えながら団体行動を身につけるという目的でドイツのワイマール時代に普及させたものでした。
 ワンダーフォーゲルはドイツから始まり、その後、世界各国に伝わり盛んとなりました。日本では昔から「行脚」という語で山々を歩く旅行が親しまれていましたが、これが山岳や登山の活動と共に広がり、1960年代になってからは各地の学校にもワンダーフォーゲル部が創設されるようになりました。

2.立命館中学校ワンダーフォーゲル部の誕生
 1966(昭和41)年、立命館中学校にもワンダーフォーゲル部(以下、ワンゲル部)が美術科教諭の野崎龍吉【注1】によって創部されました。野崎教諭は、学生時代にワンゲル部に所属して山行を好んでいて、風景画の作品にはその特徴をもつものがありました。後に中高の美術部顧問となってからは、部員たちと山々を歩いて作品を描いていました。
 まだ男子校であった立命館中学校の1966年当時のクラブ数は、文化部の方が多く(文化部8つ、運動部が6つ)、部員数(全校生徒数532名)は文化部170名で運動部180名とほぼ同数という状況でした。運動部では野球部(部員数32名)、庭球部(56名)、卓球部(31名)、排球部(18名)、陸上部(13名)で、創部1年目のワンゲル部には31名の部員が所属していました【注2】

3.ワンゲル部の活動内容
 ワンゲル部では、ユニフォームとしてやまぶき色の登山帽とエンジの登山シャツを着用していました。初期は部員数が多かったため、5つの班に分けて、各班には班長と副班長が決められました。活動は、週3日のトレーニングで体力づくりを行い、時々はハイクに必要な知識を学科と称する学習会を生徒たちで開いて学んでいました。
 月1回行われるハイクは、全員参加の総会で希望が聞かれ、それを生徒幹部会の役員たちで検討し、コースの行程や装備を決定しました。資料は、部員たちの手でガリ版印刷したものを配布されました。
 当時の立命館中学校のクラブ規定では、合宿を伴う宿泊が禁じられていたため、ワンゲル部の活動も日帰り可能な距離での行程でした。初期は10㎞程度だったのが、徐々に距離を伸ばして25㎞ほどになっていました。その達成感を生徒のリーダーは次のように述べています。
 「キャンプができず、一日で歩ける距離にコースが限られる。それでも、一日という時間を有効に使って京都のあちこちを歩いて見た。京都の郊外に、こんなにすばらしい所があるのかと言うほどの所があることを知った」【注3】 
 こうした自主的で地道な活動が学校から評価され、創部の翌1967(昭和42)年には宿泊(キャンプ)が許可されることになり、ワンゲル部の年間計画の中に宿泊コースが加えられるようになりました。

 記念すべき第1回の1泊2日のコースは、
 比良~(安曇川上流)~ヒノコ~大見(キャンプ)~杉山峠~花背峠~三条京阪(解散)
 でした。この時の取り組みを文集で次のように振り返っています。
 「まず先立って日時は、皆の都合を計り、天候なども考えて決定しなければならない。次にキャンプで水の便利な場所を考えてコースを決定した。費用なども相談して、買い物にあたったが、これも僕らの勉強で、分量やカロリーを考え体力のつくものを選ばねばならなかった。実際の行動ではテントやリュックサックの荷が重く、ようやくキャンプ地にたどり着いてもテントの組み立てと夕食の準備に時間がかかり、やっと8時頃になって飯ごうの飯の匂いをかぐことができた。後片付けを終えて寝る準備をした時はもう10時前だった。眠ったと思ったらもう朝で、すぐに朝食の準備にかからねばならなかった。(以下略)」【注4】
    野崎教諭の経験と指導が生徒たちにしっかりと伝わっていたことが想像できます。
 その後、顧問は変わり、1971(昭和46)年からの5年間は国語科で中学校副校長であった橋本二三男教諭が顧問となっています。この頃の部員数は15,16名でしたが、「北山」「比良」「湖南アルプス」などとコースを拡大し、1975(昭和50)年夏には大山縦走を実現させています。この大山では、「思わぬハプニングで不成功に終わるかと思わせた縦走をきり抜けた実績は、ワンゲル部員だれもが経験した輝かしいことであった」と、生徒たちの記憶に熱く刻まれています【注5】。

中学ワンダーフォーゲル2
【写真2】生徒と肩を組む橋本顧問(1973年3月の卒業アルバム)

 その後の主なものをあげると、
 1977(昭和52)年春には3年生を送り出すための1泊2日合宿。
 1979(昭和54)年夏季合宿として大山縦走実施。
 1980(昭和55)年夏季合宿で立山合宿(4泊5日)。 
 この年の文化祭から運動部として展示参加開始
 1983(昭和58)年夏季合宿で芦生の京大演習林(2泊3日)。
 その後には、白山(2泊3日)や白馬岳(2泊3日)、槍ヶ岳(3泊4日)と3年周期で夏合宿を実施し、冬には雪中の山行などと山岳部のような行程へと変化していっています。
 生徒たちは、道に迷ったりしながらも、ワンゲル部の活動を通じて自然と親しみ、仲間との団結や協力の大切さを学んでいったのでした。



中学ワンダーフォーゲル3
 【写真3】山岳経験豊かな西脇顧問と(1984年3月 卒業アルバム)

 このように山岳部的な活動内容になった理由としては、1984年からワンゲル部の顧問として10年間を西脇終教諭(それまで高校山岳部の顧問であった)が、その後も高校山岳部顧問の前澤俊介教諭が担当したことがあげられます。

中学ワンダーフォーゲル4
【写真4】信州育ちの前沢顧問と(1987年3月 卒業アルバム)

4.ワンゲル部の残したもの
 1988(昭和63)年には男女共学、深草キャンパス移転と変わっていきましたが、女子部員の入部はなく、部員数も減少傾向となり、ついに1998(平成10)年3月をもってその歴史を閉じることになりました。
 立命館中学校ワンダーフォーゲル部は、勝敗のない運動部として異色で貴重な存在でした。これからの部活動のあり方を考えるうえでも参考になるのではないでしょうか。
  
中学ワンダーフォーゲル5
 【写真5】最後の槍ヶ岳合宿(1998年3月 卒業アルバム)


 2024年4月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博


【注1】 京都市立絵画専門学校本科(後の京都市立芸術大学)卒業。1943年に立命館第二中学校教諭として入職。1971年からは中高校長を務めた。
【注2】 1966年度学校要覧。
【注3】 立命館中学校生徒文集「清流」第13号 (1967年3月発行)
【注4】 立命館中学校生徒文集「清流」第14号 (1968年3月発行)
【注5】 立命館中学校生徒文集「清流」第24号 (1976年3月発行)

2024.03.12

今治市河野美術館所蔵「西園寺公望資料」(その2)

 前回、今治市河野美術館所蔵「西園寺公望資料」(その1)で、「不讀俳句短冊」と「木内老兄宛書幅」を取り上げ紹介しました(立命館史資料センターホームページ 2024年1月24日)。
今回は、その所蔵資料の中から、西園寺公望の松岡康毅宛書翰と富岡鉄斎宛書翰を紹介します。

《松岡康毅宛書翰》(松岡康毅あて西園寺内閣農商務大臣内示の書翰)

今治市河野美術館 西園寺2-1
   拝啓 過日者御来駕被下 感謝至ニ候其節御内 話致御承諾被下候件弥
  明後七日午前任命有之 候運ニ可相成と存候右ニ付 農商務大臣ニ推挙
  仕候心算ニ有之候此段 豫め得貴意候参堂 之上可申述と存居候處
  不得寸暇以書中申入候 餘ハ拝芝ニ譲承候 敬具
                      一月五日    公望
   松岡閣下

《松岡康毅書翰》
 拝復 今般は非常之知遇を辱し不堪感荷之至ニ候。唯今高諭之趣ニてハ
農商務大臣ニ御推挙被下候思召之由ニ有之。既ニ前日御内諭に応したる
上は一ニと努力仕候は申迄も無之儀ニ御坐候得共内務、司法二省之内ニ
候ハゝ従来多少経験も有之候。反之農商務之事ハ何れ之智識も無之、何分
ニも危懼之至ニ候間可相成ハ内務、司法二省之内へ御差繰被下候儀ハ相叶
申間敷哉。拝答旁願上候。敬具頓首
                      一月五日    康毅
   西園寺侯閣下
    〔この西園寺公望宛松岡康毅書翰は、『西園寺公望傳』別巻一1996年による〕

    この書翰に関し、『松岡康毅日記』明治39年1月5日に下記のように書かれています。

 「陪宴 西園寺侯より、農商務大臣推挙之積ト申来、即礼見、内司二省之中ニ差操
ヲ求ㇺ、農商務ハ、余之尤無経験所也、侯云、該省ハ、政党之侵入スル憂アリ、故厳
正監督ヲ要ス、君ヲ要トスルハ、元老ニモ内談済也云々」
 また、「明治三十九年当用日記補遺」1月5日に、
「西園寺侯へ返書 御示教拝読、今般ハ非常之知遇ヲ辱シ、不堪感荷候、御示教之
旨趣ニ而ハ、農商所務大臣ニ御推挙ニ而候との事ニ御坐候処、既ニ御内諭ニ応したる
上ハ、一意努力ハ申迄も無之儀ニ候得共、内務若ハ司法二相之内ニ候得ハ、従来多少
験経モ有之、稍見込之廉も有之候、反之、農商務省ハ毫も之事躰ニ対してㇵ、真ニ暗
黒界ニ斉敷、何共危懼之至ニ候、可相成ハ前段者二省之内へ御差操ハ相成事申間敷哉、
御参看願上候、恐々敬具 右之書案作リシモ、遂ニ自ラ往見して自陳ス」

とあり、この書案は書簡として使者の手で西園寺の下に届けられたか、松岡自身が持参したかどちらかのようだ、と解説されている。
    〔日本大学精神文化研究所『松岡康毅日記』1998年〕

 これらの書翰と松岡康毅日記は、明治39(1906)年1月7日に西園寺公望内閣(第1次)が成立するにあたり、西園寺公望と農商務大臣となる松岡康毅との間で交わされ、また経緯が記されたものです。
 松岡康毅は、農商務大臣の指名に対し、その分野は経験も無いので、内務大臣か司法大臣にしてほしいと述べています。西園寺公望はこれに対し、農商務省は政党の侵入(介入)する恐れがなく、また厳正な監督が要求されるので松岡康毅を指名したとし、元老にも内談済みだと言っています。(この元老が誰を指すのか不明ですが、西園寺首相奏薦に関与した元老は伊藤博文、山縣有朋、松方正義、井上馨と言われています。)
 また、『松岡康毅日記』同年1月7日に宮中での親任式、1月8日清浦前相よりの引継ぎ、「当用日記補遺」の1月9日に任命の経緯を記しています。
 こうして松岡は、明治39(1906)年1月7日から明治41(1908)年7月14日まで農商務大臣の任に就きました。
 ちなみに、この時内務大臣に任命されたのは原敬、司法大臣は松田正久でした。

 そもそも第1次西園寺内閣で農商務大臣に任命された松岡康毅とはいかなる人物だったのでしょうか。
 松岡康毅は、弘化3(1846)年阿波国板野郡生まれ。明治4(1871)年には司法省に入り、その後東京裁判所所長や、司法大臣山田顕義のもとで法律取調委員などを務めました。明治22(1889)年には日本法律学校(のちに日本大学)の設立評議員となり、また、明治24年には検事総長や、その後伊藤内閣で内務次官や行政裁判所長官を歴任しています。
 明治36(1903)年には日本大学の初代学長となり、大正11(1922)年に初代総長となっています。大正12(1923)年9月、関東大震災により神奈川県葉山にて逝去。
  

《富岡鉄斎宛書翰》(富岡鉄斎あて西園寺公望返信)

今治市河野美術館 西園寺2-2
  
  拝啓 秋冷相催候處弥御多祥 恭賀候過日は黒川氏ニ託し数品御
  恵贈被下毎々御芳情感謝の至ニ候 赤壁遊■流涎不啻候却説御下命
  額書試候得共醜之醜なるものにて 汗顔此事何分病臂不任意御叱
  喝被下度候いづれ遠からず入洛久々 拝芝と楽居候 草々頓首
                     九月三十日   公望
     銕斎先生 梧右
    額は書留小包にて差出候也 二枚入置候得共御不用の
    分ハ御破棄可被下候 明後日東京へ帰り候企ニ有之候
             東海道御殿場驛
                       西園寺公望
      京都室町中立売北
           富岡銕斎先生 親披
 
 この書翰は、大正11(1922)年9月30日に西園寺公望が御殿場の別荘(便船塚別荘)から京都の富岡鉄斎に宛てて送った書翰(返信)です。
 富岡鉄斎は9月18日に御殿場の西園寺公望に宛てて二通の書翰を送っていました。夕と夜に書かれたものですが、同封のうえ送付しています。

 謹啓 本年残暑執酷至今猶未全退去可厭也。雖然相公閣下択勝避暑清風世界異於塵
境而益御安泰之趣先般御玉翰中之趣致敬察仕候。其節為僕賜御玉筆之義感激仕候。即
別紙之寸法御執事迄申述候。御随意可被遊也。(中略) 新聞ニモ記載之如本年東坡之
元豊五千壬戌之秋泛舟於赤壁之下、右長尾雨山内藤湖南発起人飛檄四方之処何計会
員五百名に余り泛舟宇治川雑遝甚敷風白月白之清遊殆見俗化幹事之輩茫然措手ニ至
ル、哄然一番者文人墨客謳歌太平之楽事果如斯乎、右近隣宮内省御菓子虎屋主人東行
ニ相托小品献呈御咲納幸甚。
     九月十八日夕                        富岡百錬
    公爵西園寺相公閣下  執事

   擬東坡赤壁会候宇治万碧楼、壁掛東坡採芝像、外掛前後赤壁賦図及名書画頗多、酒用
   支那酒及支那茶用支那品、菓子亦同、各茶室月白水清。虎屋製壱個、今献宇治茶小壺
   及虎屋特製一匡蓋、赤壁遊々小余意也。
   何れ発起人衆編輯小冊紀事之意、若果シ入手之節可備高覧。赤壁遊之御供ハ家族、虎
   屋主人、但宵俄雨勘要之夜月不出ハ可惜也。
                                   鉄斎
 書翰に付した短冊に「御殿場 西園寺殿執事御中 京 富岡百錬 托 黒川正弘
氏」、封紙に「御殿場別墅 富岡鉄斎 拝具/西園寺殿 下執事御中 九月十八日夜
京近隣托虎屋主人」
    〔この書翰は、立命館大学編『西園寺公望傳』別巻一 1996年による〕
     
 西園寺公望は、この年8月に御殿場を避暑地と定め別荘を設けました。以後夏は興津の坐漁荘からこの地に来て過ごしました。
 西園寺からの書翰は、過日、黒川氏(虎屋)を通じて品を送ってもらったお礼を述べ、宇治川で赤壁の雅会を催したことを羨んでいます。
 この年9月7日鉄斎は、長尾雨山、内藤湖南の発起により宇治川畔・萬碧楼で開かれた赤壁雅会に参加し、会の費用に充てるため「赤壁四面図」と「前赤壁図」を描いて雨山に贈っています。この赤壁雅会は、北宋の蘇東坡が元豊5(1082)年壬戌の年に赤壁(湖北省黄岡市)に遊んだ故事にちなんで、840年後の壬戌の年に開催したものでした。
 額書云々の件は、やはりこの年に鉄斎が自邸に書庫「魁星閣」を建て、7月に落成。また10月には画室が完成し「無量壽佛堂」と名付けました。その額の書を西園寺公望に頼んでいるので、そのことを言っていると思われます。
 「無量壽佛堂 銕斎先生属 公望」 室町一条下ルの鉄斎邸の画室に架けられましたが、現在は宝塚の清荒神清澄寺の鉄斎美術館に所蔵されています。

 そもそも西園寺公望と富岡鉄斎の関係は、明治2(1869)年に西園寺が私塾立命館を開設した際に鉄斎を賓師(教師)として迎えたことにあります。しかし立命館は翌年閉鎖を命じられ、また西園寺自身もフランスに留学したため、その後は親交が途絶えました。
 ところが大正6(1917)年10月24日、京都の古書画即売会にて偶然におよそ50年ぶりの再会を果たしました。富岡鉄斎は大正13(1924)年12月31日に逝去しますが、それまでの間、親交を結んでいます。
  
  写真は2点とも、今治市河野美術館提供によります。
  また書翰の翻刻は、立命館史資料センター・長谷川澄夫調査研究員などによります。
  二、三翻刻に異同がありましたので、筆者にて調整させていただきました。

2024年3月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2024.02.14

公式YouTube配信動画「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪」のご紹介

 「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪」という題名で、立命館 史資料センターの公式YouTubeチャンネルに二つのビデオを投稿しました。この動画では、立命館衣笠キャンパスの建物に使用されているタイルに焦点を当て、その由来や特徴などを紹介しています。
「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 基本編」https://youtu.be/qYOjP4-_b9E
「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 もっと泰山タイル編」https://youtu.be/lVCYBF4bOxA

 衣笠キャンパスのタイルとは、あの地味な建物の外壁に使われているタイルのことです。
 衣笠キャンパスを知っている人が思い浮かべる、茶色のような灰色のような色をした、あの建物の外壁には、実は特別なタイルが使われているのです。

youtube動画紹介「泰山タイル」1

 そもそもの事の始まりは、史資料センター職員が衣笠キャンパスで目にする外壁タイルの美しさに惹かれ、調べ始めたことによります。

 そのタイルが、清水焼の流れを汲む伝統的な手法を用いた手づくりの京都産タイル「泰山タイル」であることがわかり、また、タイルを製造していた泰山製陶所が1973年に閉所していることから、衣笠キャンパスの建物に使われているこれらのタイルは、かつての伝統技術によって作られた貴重なものであることが分かったのです。
<学園史資料から>衣笠キャンパス校舎の泰山タイル

 近年のレトロブームとともに、ますます注目される近代建築にとって、タイルは欠かせない意匠です。現在ではタイルそのものに注目する人も増え、様々なタイルを見て回る、街歩きのイベントなども人気を集めています。
 また、衣笠キャンパスにおいては、2023年に開催された「京都モダン建築祭」に以学館(外壁の一部に「泰山タイル」が使用されている)が選出されるなど、立命館の建築物も近代建築という視点で注目され始めています。
 しかしながら、これらの事柄はまだまだ知られていません。
 史資料センターでは、立命館のキャンパスの美しいタイルをもっと多くの人に知ってもらいたいという思いから、衣笠キャンパスのタイルの魅力を紹介する動画を制作しました。

 今回は「泰山タイル」の生みの親、池田泰山の孫であり、自身もかつて泰山製陶所にてタイル作りに携わり、現在は集成モザイク作家として活躍されている池田泰祐さんにインタビューを行いました。
 動画では、「泰山タイル」の詳しい解説とともに、衣笠キャンパスのタイルを実際にご覧いただき、立命館に使用された「泰山タイル」の特徴や、タイルから伺える事柄や印象などをお話ししていただいています。

 動画タイトル「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 基本編」では、「泰山タイル」の歴史や衣笠キャンパスに使用されているタイルの特徴などを紹介しています。
 動画タイトル「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 もっと泰山タイル編」では、全てが手づくりというタイルの製造工程なども含め、より詳しく「泰山タイル」について紹介しています。
どちらの動画も4分程度でご覧いただけます。

 これらの動画は、映像制作会社ドルフィンスルー株式会社の代表、横川隆司氏の協力のもと、撮影・編集共に史資料センターの職員が行いました。
 今後も「泰山タイル」に留まらず、より多くの人に知って欲しい立命館に関することについて、動画配信も活用しながらわかりやすくお届けしていきます。

2024年2月14日

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