2018年9月9日(日)13:30~15:30 亀岡市「ガレリアかめおか」にて「明治時代の教育改革に取り組んだ中川小十郎の未来像~とくに女子教育について」と題する講演会が開催されました。
講師は立命館大学文学部 山崎有恒教授。主催は NPO法人 中川小十郎先生亀岡顕彰会(共催:立命館大学校友会亀岡校友会、後援:亀岡市・亀岡市教育委員会)で、72名の参加がありました。
講演では、近世日本の女子教育はどのようなものであったか、そして明治維新を経てどのように変わっていったかのお話がありました。
明治初期、初等教育では男女平等の教育を実現したけれども、高等教育では男女平等論と男女職分論に分かれ、後者の流れで女学校が誕生します。
そのような背景の中で中川小十郎は、東京女子師範学校校長であった叔父・中川謙二郎の薫陶を受け、女子教育の重要性を認識していきました。
中川は、男女それぞれに得意分野があって、互いを認め合って琴瑟和合することが大切であるという男女職分論をとりながら、男は「漢文」女は「ひらがな」という今の教育方法は、女子教育を、ひいては国力の発展の妨げになると考え、男女の文体を同じにする必要性を説きます。
この考えを論文「男女の文体を一にする方法」として、文部省懸賞に応募し一等となり、その懸賞金を全て投資して、雑誌「いらつめ」を発刊、文体の統一だけでなく、話し言葉と書き言葉を一致させる「言文一致運動」をすすめていくのです。
中川が描いた理想の日本社会像は、「男性だけだと粗雑で争いに満ちた、ぎすぎすとした社会ができあがる。『優柔温和』な女性がいてこそ社会は調和し、穏やかにまわっていく」というものでした。
それは現代の男女平等の視点とはだいぶ異なりますが、明治の時代にあっては画期的な発想であったのです。
山崎先生は、後に広岡浅子の側近として日本女子大学創立を支援するなど「女子教育のパイオニア」としての中川小十郎という、あまり知られていない側面を、エピソードを交えながらお話され、会場も感心しきりのようすでした。