立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>昭和9年前後の立命館大学-佐々木惣一学長の時代-

  • 2022年06月16日更新
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はじめに
 先日、昭和9年1月に発行された「立命館大学入学案内」(立命館学生生徒募集要項)を入手した。これまで所蔵されていない資料であった。
 昭和9年といえば、前年に京都帝国大学で「京大事件」が起こり、法学部の教授・助教授等が辞職、免官となり、立命館で多くの教員を迎え入れた。その結果教学においても研究でも立命館は大きな飛躍を遂げた。昭和10年には創立35周年という記念大事業も行い、立命館は発展期を迎えたのである。京大事件を経て招聘した佐々木惣一学長の時代でもあった。
 今回は、この「立命館大学入学案内」、『立命館学誌』などの資料をもとにして、昭和8年度から10年度頃までの立命館大学を訪ねる。

1.昭和8年度の立命館大学

佐々木惣一学長の時代1

【写真1 昭和9年3月卒業アルバムより】

(1)京大事件の教員の受け入れ
 昭和7年に京都帝国大学法学部瀧川幸辰教授が中央大学で行った講演や、その著書『刑法読本』が危険思想として、翌8年1月国会で問題となり罷免が要求された。5月、文部大臣は、瀧川教授の刑法学説(瀧川教授の刑法理論は客観主義刑法論と言われた)が大学令第一条に規定する大学教授の「国家思想の涵養」義務に違反するとして休職処分にした。この処分を巡って小西京都帝国大学総長は辞職、法学部教員は、文部省の措置は受け入れられないとして辞表を提出、7月、佐々木惣一、宮本英脩、宮本英雄、森口繁治、末川博、瀧川幸辰の六教授が免官となり、続いて田村徳治、恒藤恭両教授も辞職・免官となった。8月には多くの講師・助手・副手も依願解嘱となった。法学部教員の辞職・免官は41人に及んだ。
 この「京大事件」で法学部教授が一斉に辞表を出したことに対し、中川小十郎立命館総長(以下、「中川総長」)は、「反対もせぬ、賛成もせぬ」(「大阪朝日新聞」(京都版)昭和8年5月27日)とし、学問の自由や大学の自治に消極的な見解をもっていたが、免官組の教員を立命館大学で受け入れることにした。
 佐々木惣一によれば、中川総長が「学界の為めに、我々に学界の地盤を提供したいといふことと共に、立命館大学自身が、之に依て、今後一層立派に大学の目的を達するやう力めたい」ということであった。佐々木はこの時、中川総長が事件発生の際に新聞で語ったとされることについてその真意を確かめている(1)。

(2)立命館大学の新たな教学体制
 『立命館学誌』第163号(昭和8年9月1日)は、学園の近事の記事で「京大関係諸先生の立命館学園入り略内定す」と報じている(2)。
 憲法・佐々木氏、憲法・森口氏、行政学・田村氏、法理学・恒藤氏、民法・末川氏、刑法諸科目・佐伯氏、商法・大隅氏、政治学・黒田氏、政治学史・大岩氏、民法・於保氏、商法・大森氏、民法・中田氏、独法・森氏、社会法・加古氏、外交史・田中氏、英法・石本氏、英法・浅井氏および岡氏の18名であった。独り瀧川氏を洩らす、となっている。
 9月3日には歓迎の晩餐会を開いている。晩餐会で迎えられた出席者は、都合のつかなかった3名を除き15名が出席している。立命館側は、中川総長をはじめ織田萬名誉総長、各理事・教授等であった。中川総長の挨拶があり、末川博が答詞を行った。この歓迎晩餐会には瀧川幸辰も出席している。瀧川は、以降も『立命館学誌』などにしばしば論文を出した。
 9月16日の総長公示は、今回の招請は、本学の内容実質の向上になること、諸先生方の研究上の便宜を提供するものであるとし、学生諸君もさらに向学の志を新たにしてほしい、と訴えた。
 9月17日には新講座が発表され、翌18日から秋の新学期が始まった。佐伯・大隅・黒田・大岩は教授として、田中・加古・於保・大森・中田・岡は助教授として、そして佐々木・森口・田村・末川・恒藤・森・石本・浅井は講師ということであった。これは立命館の財政的事情によるとされた。
 なお、佐々木惣一、森口繁治、瀧川幸辰、大隅健一郎、佐伯千仭はこの年既に講師として科目を担当していたが、佐々木は明治40年から、森口は大正6年から、末川は大正7年から、大隅は昭和4年から、すでに立命館で講師を務めていた。

(3)立命館職制の改正と機関雑誌の発行
 昭和8年11月、職制が改正され、任期制が導入されて学長の任期3年、部長の任期が2年となった。
 12月12日、各学科の新部長が決定し発表された。
 法律学科部長に佐々木惣一、経済学科部長に神戸正雄、商学科部長に小島昌太郎、文学科部長に高瀬武次郎、予科部長に野々村直太郎が就任した。
 学長は、12月19日に当面中川総長が学長事務取扱を兼務して就任した。
 1月にはそれまでの立命館機関雑誌『立命館学叢』を廃刊し、新たな機関雑誌『法と経済』および『立命館文学』を発行した。『法と経済』創刊号では、田島錦治、佐々木惣一、小島昌太郎、末川博の論説など、『立命館文学』創刊号では、中川小十郎、吉澤義則、佐保田鶴治、小泉苳三などの論文が掲載された。ともに学界に大きく寄与する雑誌となった。

(4)佐々木惣一、学長に就任
 そして3月9日、佐々木惣一学長が文部省から認可され、就任した。
 昭和9年3月10日から13日までの4日間の佐々木惣一の日記が残っている(3)。学長就任4日間の動静を知ることができる。
 【昭和9年3月10日(土)】
  竹上立命館理事午後来宅、文部大臣の余の立命館大学長就任の認可ありたる旨を報ず。
  余時に上阪不在中、家人代て之を聴く。夜大阪より帰京の汽車中大阪朝日新聞夕刊にて
  同上認可の記事を読む。帰宅、今夕竹上理事来宅 明十一日立命館中学校並立命館商業
  学校卒業式に於て大学長として祝辞を述べて…(以下略)。
 【11日(日)】
  午前八時半立命館中学校、立命館商業学校卒業式に参列。立命館大学長として祝辞を述
  ぶ。かかる式にて祝辞など述べること初めてである。午後板木教授電話、立命館大学部、
  専門部、予科の主任教員諸氏十三日又は十四日に余を歓迎するの茶話会を催さんとて
  余の都合をたづねられたので、御受の意を答ふ。
 【12日(月)】
  朝磯崎教授来宅、十三日茶話会のことを告ぐ。田島名誉大学長、跡部教授に挨拶、田島
  名誉学長は不在。午後一時大工原同志社総長の葬式に参列。三時登学、中川総長の登学
  を待て就任の挨拶を為す。総長より懇篤なる依頼の辞を受く。…(一部略)…今日大学に
  て辞令を受く。今回立命館大学長に就任実に余の志に反するも仕方なし。天の命と観ず
  るの外ない。
 【13日(火)】
  午後二時東洋亭の茶話会に赴く。大学部、専門学部、予科の専任教員諸氏の懇篤なる歓
  迎を受く。諸氏の援助を以てせめて一任期だけなりとも無事につとめんとおもふ。夜、
  板木、磯崎、太田三教授来宅、立命一般のこと、商学部、高商部のことについて事情を
  聴く。

(5)京大復帰問題
 1月20日には、招聘歓迎の全国校友大会が盛大に開かれた。
 ところが、3月初めから招聘教員の京大復帰問題が表面化した。連日復帰を巡る様々な交渉があった。そして、3月17日、黒田覚、大隅健一郎、佐伯千仭、於保不二雄、大森忠夫、中田淳一の六氏が佐々木学長を訪問し辞職を申し出、立命館としても辞表を受理することとなった。同日京都日出新聞も京大復帰を報道、25日まで連日にわたって「復帰の内幕」を掲載報道した。
 3月22日には緊急校友大会も開かれ、校友会は復帰教員を糾弾した。
 長谷川如是閑は、『立命館学誌』(第170号)に、京大復帰問題について「社会的正義だけは、何時の世にもはっきりと光って居て欲しい」と談話を寄せた。

(6)昭和8年度の卒業生
 昭和8年度の卒業式は昭和9年3月18日。京都法政学校から数えて第32回の卒業式である。大学昼間部法律学科83名、経済学科21名、商学科17名、夜間部法律学科66名、経済学科5名、商科6名、専門部法律学科107名、経済学科15名、文学科16名、高等商業科18名、合計354名が卒業した。
 佐々木学長は、卒業生に次のように訓示を贈った。
 「真に社会の進歩、国家の発展を欲する者は、先づ以て社会に於ける自己を直接の任務即ち自己の職業の為に、最も誠実に尽くすことから着手しなくてはならない。」(『立命館学誌』第170号)
 先立つ1月3日の京都日出新聞は、
 「わが世の春!陣容誇らかな立命館 満洲国に期待」「ここほど最近有卦に入っている学校は一寸他にあるまい。天下の絶讃を満身に浴びつつ……天下に名だたる顔ぶれを以て編成し他校の羨望をよそにいまこそわが世の春を讃えているが、今春勇ましく同学園を巣立つ人々は……今年こそ見事就職戦線に君臨せんと……今年は満洲国方面の就職戦線に全力を傾注し……相当期待しうるようである」と。

2.昭和9年度の立命館大学

佐々木惣一学長の時代2

【写真2 昭和10年3月卒業アルバムより】

(1)昭和9年度の入学試験
 昭和9年1月発行の「立命館大学入学案内」によると、以下のように昭和9年度の入学試験が案内された(4)。実施されるのは大学部、予科、専門学部の入学試験。
 大学部は法律学科・経済学科・商学科の甲(昼間)、法律学科・経済学科の乙(夜間)で、試験日は4月10日、予科は第二部(2年制)の甲(昼間)乙(夜間)、第一部(3年制)昼間で試験日は第二部甲が4月5日、第二部乙と第一部が4月6日であった。専門学部は第一部(昼間)法律学科・経済学科・高等商業科、第二部(夜間)法律学科・経済学科・文学科で、試験日は第一部が4月3日、第二部が4月9日であった。
 このうち、大学予科と、専門学部第一部(法律学科・経済学科・高等商業科)は九州帝国大学(工学部)で試験を実施している。
 学費についても掲載されている。
 大学部昼間部147円50銭、夜間部144円50銭。大学予科昼間部137円50銭、夜間部134円50銭。専門学部昼間部132円50銭、夜間部111円である。いずれも年額(3期分割)。
 入学試験では、学業成績および人物考査を行い、特に人物の考査に重きを置いた。
 この概要は、『立命館学誌』第168号および第169号の掲載広告「立命館学生生徒募集」のほか、昭和9年2月19日の京都日出新聞にも入学案内・学生募集の広告が掲載されている。
 この年の入学試験は、大学部法律学科の志願者が354名(前年度は229名)、専門学部法律学科が274名(前年度は204名)と大きく増加した。また地方試験場(出張入試)が実施されたことである。前年度と次年度は実施した様子がない。昭和8年、昭和9年、昭和10年の受験者数を比べて昭和9年の九州地域の受験者が特に増加したとはみられない。
 法律学科の志願者が大幅に増えたのは、京都帝国大学法学部の多数の教授・助教授が立命館大学に移ったことによると思われる。
 なぜ九州帝国大学で実施したか不明であるが、講師として立命館大学に出講していた谷口吉彦経済学博士は京都帝国大学教授と九州帝国大学教授を兼務していた。
 
(2)昭和9年度の入学式
 昭和9年度の入学式は、甲班予科と第一部専門学部が4月11日に、第二部専門学部が5月5日に挙行された。
 入学者は、法経学部法律学科250名、経済学科67名、商学科14名、研究科4名。大学予科第一部(3年制)52名、第二部(2年制)158名。専門学部法律学科241名、経済学科88名、高等商業科130名、文学科43名、別科29名であった。
 佐々木学長は、予科及び第一部専門学部の入学式において「其の第一歩に於て、自覚をもち立志の精神をもってもらいたい」と、また専門学部第二部においては、「学問を愛しなくてはならない。学問を愛するという事は社会科学の研究者に於て特に心がくる必要がある。また、本学に於て、一人修学修養するのではなく、他人と一緒にしていることを忘れてはならない」と、訓示・訓話をした。(『立命館学誌』第171号)

(3)夏期講座
 この夏、夏期講座が行われた。佐々木学長は、大学の本来の任務は内において研究修養の実を上げることであるが、同時に社会的にも役立つ任務を尽くすことが望ましい、と言っている。法経講座の聴講者は中等学校・小学校の教員のみならず本学外の官私諸大学の学生が少なからず来て、東京・京都のみならず福岡などの学校からも来た。国語講座も盛況で高瀬部長が日本精神の勃興のせいであるとのことであったが、佐々木学長は京都精神として見たいと述べた。(『立命館学誌』第173号 )
 法経科は8月1日から8日まで、聴講者600余名、国語科は1日から6日までで120名であった。法経科は夜間講座を含み佐々木惣一、谷口吉彦、恒藤恭、末川博など13講座が開かれ、終講日には中川総長、佐々木学長などと聴講者の談話会が開かれた。
 また、国語科は、夜間を含め吉澤義則、清水泰、江馬務など12講座が開かれ、御所拝観、洛西名所遺跡見学、湖南名所遺跡見学も行われた。こちらも聴講生との茶話会が開かれた。
(『立命館学誌』第173号)

(4)様々な活動
 夏期講座のほか、法律問題研究会、経済問題研究会や文学会の公開講演などが実施された(5)。
 学生生徒の科外活動も活発であった。
 体育会には、総務部・剣道部・柔道部・弓道部・馬術部・相撲部・射撃部・野球部・庭球部・蹴球部・陸上競技部・水泳部・端艇部・スキー部・卓球部・航空研究会があった。
 体育会以外の学生団体は、立美会や映画研究会があった。
 学校は卒業を迎える学生の就職にあたっては、専任教授から委員を選出し、随時斡旋の労をとった。
 学内に医務局を設置し、学生生徒及び関係者の保健衛生に務めた。また附属図書館は、教職員・学生生徒はもとより、卒業生や一般の希望者の閲覧にも供した。

(5)昭和9年度の卒業式
 昭和10年3月24日、第33回の卒業式が挙行された。当時の卒業式の様子を式次第から見てみよう。
 卒業式次第:式場着席、御真影奉拝、明治天皇聖像奉拝(開扉、敬礼、教育勅語奉読、卒業証書授与、敬礼、閉扉)、賞品授与、大学長訓示、立命館総長訓辞、京都帝国大学総長祝辞、校友総代祝辞、卒業生答辞(大学部卒業生、専門学部卒業生)、休憩室に於いて記念図書贈呈並接待。(『立命館学誌』第180号)
 佐々木学長は次のように訓示した。「……養性館、存心館、之は言うまでもなく我々の人物を練るの根本の目標である。…諸君は今や複雑なる実際社会の生活に入るのであるが、矢張学園生活に於て養はれたる純粋さを維持し、健実なる人物として、雑然たる社会現象に処し、以て真に価値ある社会の進歩を来さしめなくてはならない」(『立命館学誌』第181号)

佐々木惣一学長の時代3

【写真3 昭和10年3月、佐々木学長授与の卒業証書】

(6)昭和8年度から昭和10年度の学生・生徒の状況

佐々木惣一学長の時代7

3.昭和10年度の立命館大学

佐々木惣一学長の時代5

【写真4 昭和11年卒業アルバムより】

(1)創立35周年記念事業
1)諸事業

 昭和10(1935)年は、前身の京都法政学校を明治33(1900)年に創立して35周年を迎えた。創立者中川総長の古稀祝賀記念と合わせ、盛大な記念事業を行った。
 教育面では専門学部文学科に歴史地理学科を設置した。
 学術面では、「国宝 御堂関白記」の複製頒布、『美妙選集』上下を発行、また『立命館35周年記念論文集』法経編(28編)・文学編(20編)を発行した。これまで発行してきた立命館出版部による書籍は200点に及んだ。
 施設面では、卒業生・教職員・縁故者が寄付を集め、中川会館を建設した。
2)記念式典
 11月23日には、創立35周年祝賀式を挙行した。西園寺公望は、「明治の初めに於いて余が建設する立命館の名称と精神を継承する貴学がますます発展して国家の進運に貢献すること大なるべきことを祈る」と祝電を寄せた。
 中川総長の式辞、織田名誉総長の祝辞に続いて、佐々木学長は次のように述べた。
 「我学園の規模は大であってその過去の発展の跡の著しいことに驚く。現在大学の学生数は二千五百に近く、中学校・商業学校は千五百に近い。卒業生の数も四千に達しようとしている。これは中川総長を始めとした学園関係者の努力の賜物である。立命館学園は国家有用の人材を養成すること、社会各方面に奉仕の精神をもって活動する人材を養成することが使命である。この使命を遂げるには精神的努力とともにその施設を完備する必要がある。中川総長をたすけて学園関係者、学生生徒一致協力して奮励することを切望する。(要旨)」
(『立命館学誌』第186号)
 同日夜、校友会は中川総長古稀祝賀会を開催し、「中川会館」の贈呈式を行った。
3)記念大運動会
 翌24日、大学、中学・商業生徒で編成された全軍(禁衛隊)は、統監中川総長、副統監佐々木学長等を先頭に、自動車・サイドカー・トラック等に分乗して広小路校門から河原町通りに出て深草練兵場に向かった。午前は飛行機、高射砲、機関銃、小銃、煙幕などで数万の群集を魅了した。午後は高等飛行、高射砲射撃、馬術、砲兵教練、側車教練、杖術、槍術、自動車教練、野試合などを演じて人気を呼んだ。(『立命館学誌』第186号)

(2)昭和10年度の卒業式
 昭和11年3月22日、第34回の卒業式が行われた。
 佐々木学長は卒業生に対し「一昨年第32回の卒業式では他人を以て代ふ可からざる底の人物になれと述べた。昨年第33回の卒業式では、底力を養ふの必要、ということを説いた。今年は余裕のある心持を養うようにせられたい、そして反省を為す人となってもらいたい。とともに立命館人としての自覚を求むるものであります。(要約)」と訓示した。(『立命館学誌』第189号)
 この年卒業したなかに、のちに立命館総長となった武藤守一(大学部甲班経済学科)、のち久保田鉄工(現・クボタ)社長・立命館校友会会長の廣慶太郎(大学部乙班経済学科)、昭和44年から5期20年にわたって神戸市長となった宮崎辰雄(専門学部二部法律学科)、東洋学者で立命館大学教授となった白川静(専門学部二部文学科)などがいる。

佐々木惣一学長の時代6

【写真5 昭和11年3月卒業アルバムより】

(3)佐々木学長の辞任と学園の元学長・理事長の逝去
 昭和9年6月28日に佐々木学長の前任であった田島錦治名誉学長が、昭和10年9月14日には初代校長・学長を務めた富井政章が亡くなった。
 この年6月、寄附行為を改正し、理事長職を新設し、池田繁太郎を初代理事長に選任した。ところが就任わずか1か月後の10月27日、病気のため逝去した。池田は第3期の卒業生で弁護士であったが、中川総長が嘱望し、学園運営の後継者として理事長に選任していた。
 学園はこの間、草創期から興隆期の重職者を次々と失った。
 昭和10年2月、貴族院において美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、国体明徴運動が全国的に展開された。天皇機関説は立憲主義に基づくものであったが、軍部を中心に否定され、天皇が統治権の絶対的主体であるとし、文部省や政府も国体明徴声明を出すに至った。
 とりわけ天皇機関説にたつ憲法学者は排撃された。美濃部は不敬罪で告発され著書は発禁処分となった。京都帝国大学の渡辺宗太郎教授の4月からの講義は停止され、佐々木惣一は講師として神戸商科大学に出講していたが、5月にはその憲法講座を突如休講にされ、講師を解任されてしまった。
 佐々木学長はこの状況下で、昭和11年3月、3年の任期を1年残し、学長を辞任した。
 3月22日の卒業式を最後に辞職を決意したという。
 25日に教授・助教授を招集し告別の挨拶を行った。立命館は佐々木学長にその貢献を深謝し名誉学長とした。
 「国宝ともいわれる学殖と玲瓏珠の如きわれらが学長佐々木惣一博士は、卒業式が済んだあと、引退の旨を学校に伝えた。京大問題後、幾多の俊秀な少壮学者を引き連れて本学の教壇に立たれ、学長となられて学園の充実に努められ、京都の立命館大学は日本の立命館大学としてその輝かしさを謳われるに至った」(『立命館学誌』第189号)
 後任の学長が決定するまで、名誉総長織田萬が学長事務取扱となった。織田は京都帝国大学で佐々木の師の一人であった。
 4月15日には、大阪在住の昭和9・10・11年の卒業生など約50名が佐々木学長の送別会を開催している。
 また、10月2日には、立命館の教え子が佐々木博士の彫像を完成し、贈呈式を行っている。博士の彫像はどこに行ったのであろうか。

おわりに
 本稿では、昭和8年度から10年度の間の立命館大学について述べてきた。この時代、年表風にごく一部の事項を取り上げると次のようなことが起こった。
  昭和7年3月   満洲国建国宣言
  昭和8年3月   日本、国際連盟脱退
    〃 4月~7月 京大事件
  昭和9年6月   文部省、学生部を拡充し思想局設置
  昭和10年2月   貴族院で美濃部達吉の天皇機関説攻撃(天皇機関説事件始まる)
    〃  4月   文部省、国体明徴を訓令
    〃  8月   政府、国体明徴を声明
当然こうした動向は、国家の「政策」として、大学やその教育にも及んだ。
 大学令第一条は「大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スへキモノトス」と規定していたし、この間の立命館大学の学則第一条は、「本大学ハ教育勅語ノ聖旨ヲ奉体シ国家有用ノ人材ヲ養成スルタメ法律経済及ヒ商業ニ関スル学術ノ理論及ヒ応用ヲ教授シ並ニ其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」であった。


  資料
(1)『京大事件』七人共編 岩波書店 昭和8年11月
 七人:佐々木惣一、末川博、瀧川幸辰、田村徳治、恒藤恭、宮本英雄、森口繁治
(2)『立命館学誌』第163号 昭和8年9月1日
 以下本稿は、『立命館学誌』各号に多くをよっている。本文中で個別に挙げていない場合があるが、(6)以下の各号による。
(3)「佐々木惣一博士旧蔵資料」京都府立京都学・歴彩館所蔵
(4)「立命館大学入学案内・立命館大学職員表」昭和9年1月
(5)「学事年報調書 昭和9年度」京都府立京都学・歴彩館所蔵
(6)『立命館学誌』第164号 昭和8年10月1日
(7)『立命館学誌』第168号 昭和9年2月15日
(8)『立命館学誌』第169号 昭和9年3月15日
(9)『立命館学誌』第170号 昭和9年4月15日
(10)『立命館学誌』第171号 昭和9年5月15日
(11)『立命館学誌』第173号 昭和9年9月15日
(12)『立命館学誌』第180号 昭和10年4月15日
(13)『立命館学誌』第181号 昭和10年5月15日
(14)『立命館学誌』第186号 昭和10年12月15日
(15)『立命館学誌』第189号 昭和11年4月15日
 参考資料
(1)松尾尊兌「瀧川事件以後―京都大学法学部再建問題」京都大学大学文書館研究紀要 2004年
(2)小野恵美子「父・岡康哉と京大事件」立命館百年史紀要第13号 2005年
(3)末次峯『追憶 末次仁小傳』昭和12年

2022年6月16日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

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