立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>等持院学舎(衣笠キャンパス)とその界隈の話-お隣に住んでいた方のパーソナル・ナラティブから-

  • 2022年09月21日更新
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 先日(2022年4月18日)、等持院学舎界隈の歴史について、お話を伺う機会があった。お話を伺ったのは、京都市内に住んでおられる91歳の方で、昭和8、9年頃から昭和30年頃まで等持院学舎の隣りに住んでおられた方である。
 等持院学舎は、昭和13年に校地を取得、昭和14年11月に立命館日満高等工科学校を北大路から移転・開設し、以降、昭和40年に経済学部・経営学部が広小路学舎から衣笠に移転するまで、理工系の学部・学科だけがおかれた。このころまでは現在の衣笠キャンパスを等持院学舎と呼んでいた。
 その時代の等持院学舎とその界隈のお話である。
 なお、お話は衣笠キャンパス・至徳館3階でキャンパス北側、衣笠山を見ながらお伺いし、できるだけそのまま採録したが、一部編集している。


(久保田) 今日はお越しいただきましてありがとうございます。Aさんが衣笠球場(注1)の新聞記事(2022年1月23日朝日新聞)を見られて、この辺りの昔の様子を知っておられるということでしたので、いろいろお話をお聞きしたいと思い、お越しいただいた次第です。
≪衣笠小学校と満工≫
(Aさん) ちょうど家の2階から球場の観覧席が見えておりましたので、野球が始まったら、みんなの声とか、そんなんはもう本当に手に取るように、家の2階のほうに聞こえておりました。見には行ってないですけど。
私が生まれたのが昭和6年ですのでね。2,3歳の頃に父親の転勤で(東京から)京都にきましたので、それで衣笠に住むようになりました。小学校は、もう京都の衣笠小学校なんです。結婚するまで、だからそこにずっとおりました。
(久保田) そうなんですか。小学生のときはもう京都に来て、衣笠小学校に入学されてたんですね。
(Aさん) はい。その後、4年生の時に大東亜戦争(注2)が始まりましてね。その頃に国民学校に、名前が衣笠尋常小学校から衣笠国民学校になりましたですね。その頃ね。
(久保田) 今のお話で小学校の入学前にもうこちらに来られたので、これ、昭和14年にいわゆる等持院学舎、と当時言っていたのですが。学校のことで覚えておられることがあれば。
(Aさん) あっ、満工って言わなかったんですか。
(久保田) そこに昭和14年の11月に日満高等工科学校を開設したんです。昭和13年に北大路に立命館高等工科学校をつくり、次の年に日満高等工科学校になって、11月に引っ越してきたんです。
(Aさん) それが建った頃、知っていますよ。覚えています。近所にね、満洲の国旗を配ってくださいましたわ。近所の家に、小松原の学校周辺に。
(久保田) 学校が配ったんですか。満洲の国旗を。
(Aさん) 満工が配ってくれましたね。満洲の国旗でしたわ。黄色い。

等持院界隈1
【写真① 満洲国国旗 卒業生寄贈】


(久保田) 日満高等工科学校というのは、満洲の技術者を養成するための学校を造ったんですね。
(Aさん) そうですか。飛行機を造ってというようなことを聞きましたけど。飛行機の部品かなんかじゃなかったかしら。
(久保田) 日満高等工科学校の中にね。その中に航空発動機科というのをつくったんです。7つほど学科をつくったんです。自動車工学科とかね。機械だとか、電気だとか、応用化学だとか、建築だとか、それから採鉱冶金学科とか。
(Aさん) そうなんですか。私の父のいとこでね、木村秀政(注3)というYS-11の設計をしていますのでね。東大の工学部を出たんだと思いますけど、それの設計をして、その木村秀政がここの満工へ来られたことがあるんですよね。私の父の兄が秀政さんと出会ったという話を聞きましたわ。

等持院界隈2
【写真② 航空発動機科】


(久保田) 自動車工学科など、トヨタの方が来られていました。
≪等持院学舎の界隈≫
(久保田) 終戦くらいまでのこの辺りの様子はどうでしたか。
(Aさん) もう全部衣笠山の林でしたね。山裾がずっとね。校舎のところも全部クヌギ林やったんですよ。それで、私ら子供のときはゲンジとか、カブトとか、ブンブンとかがいてね。そういうものを捕りに夜は行っておりましたしね。(注:ゲンジはクワガタのこと)
 私の家のすぐ隣にも昆虫採集を専門にしている人がおりましてね。それで毎日網を持って、この衣笠一帯でチョウチョウとか、トンボとか、いろんな種類が飛んでおりましたしね。展翅板にきちっとしてね。島津製作所に昆虫採集の標本を出しておられた方(がいて)。私も小学校の時からその方に教えてもらったりして、捕ったチョウチョウとか、トンボとか、そんなんを展翅板に貼ってね。作品として、夏休みの作品で、島津製作所に子供として出して、佳作に入ったとか、そんなこともありました。昆虫も本当に豊かでしたね。
(久保田) 日満の頃のキャンパス、結構キャンパスの中に入ったりはされていたんですか。
(Aさん) 入口も入れたと思いますし。何か畑を、満工の周囲に近所の家庭の菜園みたいなのを作ってましたよ。畑、自分とこで大根とか、おネギを植えるとかね。その頃もう戦争が多分最中でしょ。みんな、ひもを張って、番号を付けて、くじ引きで。あんたは1番やったらあの土地ですって。もうくじ引きで決まったところが自分の畑になってね。家族でそこでいろんな畑仕事をしたのを覚えてますわ。
(久保田) それはキャンパスの中にあったんですか。
(Aさん) 今で言うたら、もうキャンパスの中になりますね。ちょうど東門のとこから入ったあのあたり。今で言う東門を入ったところ、全部家庭菜園の畑になりましたね。戦争中。
(久保田) この写真(写真③)は1950年代後半かな。まだ観光道路(注4‐1)がない。通っていない。球場はあるんですけど。

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【写真③ 衣笠学舎 1950年頃】


(Aさん) きぬかけ(の路)(注4‐2)やらは後からですね。まだ堂本印象さん(注5)のもできてないしね。もちろん。
 東門を真っすぐ行ったら、平野神社に出ますでしょ。ちょうど平野神社から上がってきて今で言う東門を入ったところ、全部家庭菜園の畑になりましたね。戦争中。
(久保田) 東門って、どんなふうになっていましたか。
(Aさん) いや、門なんか無かったですよ。はい、草がいっぱい生えてて、門も何も無かった。
≪嵐電等持院と市電わら天神≫
(久保田) これね、この写真(写真③)で言ったら、ここがもともとの正門だったんですよ()。ここ、等持院さんがあって、すぐ西側にお寺(功運院)があって、ここの間の道をね。等持院という嵐電の駅から来るんですね。
(Aさん) そうですね。嵐電、私も小学校出てから、嵯峨野、あの頃、高等女学校と言っていたとこへ通うのに、ここの等持院の嵐電の駅まで、この林の中を歩いてました。そんなに建物無かったですね。家から出て林の中、細い道をずっと出て、きっと嵐電の等持院の駅に出て、嵐電で嵯峨野まで通ってましたね。2年間。

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【写真④ 嵐電等持院駅 昭和16年】


(久保田) えっ、Aさんって、衣笠小学校で、その次、中学というのはどうなるんですか。
(Aさん) 6・3・3制で、6年出たら、男女別でね。小学校の次は、はい、嵯峨野高等女学校。はい、試験がありました。
 その試験もね、戦争中でしたから、口頭試問でしたね。一つの部屋に入りましたら、先生方が三、四人座っておられて、一人ずつ呼んでね。女学校の試験ですよ。「海行かば」(注6)という、あれを読まされて、出て読みなさい。意味を言いなさい。そんなんが今から言えば本当に「海行かば 水漬く屍」というあれね。あれはもう絶対戦争との関係がありますね。玉砕するときにね、ニュースで必ず「海行かば」は大本営発表というて、「海行かば」のあの曲が流れたら、あっ、どっか玉砕したなというのが分かりますし、その「海行かば」が女学校の入学試験のなかにひとつ出てましたね。
 あと、万葉集からも出てましたけど、もう紙がなかったんですよ。口頭試問やったんですね。目の前でしゃべる、それで先生方がおられるというので、嵯峨野高等女学校に行って、2年生のときに終戦になったんですよ。
 だから、その嵯峨野は新制中学に格下げになったんですよ。それでね、学校を変わらないかんので、昔で言うと、府一と言うてました、今、鴨沂高校に名前変わって、そこへ引っ越したんですよ、生徒全部。
 鴨沂高校に行ってまして、1年も行かんうちに、今度は地域制という制度がしかれましてね、どこどこ小学校の人はどこへ行くというあれで、衣笠小学校にいた人は、私は山城高校に移されて、結局山城高校に1年半ぐらい行ったかしら。そんなんで、6・3・3制でだいぶん振り回されましたね。学力がつかなかったと思いますわ。女学校に行ったときは2年間、戦争中に行きましたでしょ。空襲警報が鳴ったり、警戒警報が鳴ったり、そのたんびに帰されるんですよ。もちろん非常袋を提げてね。非常袋に血液型やら全部書いてあって。学校の避難訓練っていうたら、防空壕に入る避難訓練ですよ。
(久保田) その日満の時代に、立命の生徒は、一つは嵐電が北野の天神さんのところまで行っとったんですね。それから小松原の駅、それから等持院の駅だったはずなんですよ。
 もう一つは、西大路通の市電はどうだったんでしょう。
(Aさん) 市電で降りて、あと大分歩いて家に帰りましたよ。両側が畑でね。私は大体、わら天神で乗り降りしていたと思います。暗くなったら私も、市電で来ても、降りたら千本北大路からタクシーに乗ってました。暗くて怖くて。
 この辺りは、大きいお家が。日本画家で有名な方、たくさんおられたんですよ。小松原周辺は有名な絵描き村(注7)と言われまして。私の家の本当に近くにも、絵描きさんが何軒もありましてね。今は、絵を描いておられる方は一人ぐらいおられるかな、という感じ。
 私も小学校から家に帰るのは、平野神社の前から真っすぐ帰ってたんです。両側は畑ばっかりで。山中油店という大きな柱が立ってて、畑の真ん中に。あれはお茶畑やったと思うんですけれども、それが目についてまして。

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等持院界隈6

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【写真⑤⑥⑦ 平野神社前から等持院学舎へ 昭和19年頃】


≪衣笠球場≫
(久保田) 野球場に関連して。
(Aさん) 球場の歓声やらが、もろに家に、2階に。
(久保田) この球場の歴史の関係でよく言うのは、吉田監督(注8)って、元阪神の監督。
(Aさん) あっ、知ってます。私、山城でね、吉田さんが私の下やったんかな。あのときね、山城のときね、野球よりもラグビーのほうが有名やったんですよ。
(久保田) 吉田さんは1年で立命を中退して、阪神に行った。
(Aさん) 阪神が優勝した時、あの方(吉田監督)に私、祝電を打ったのを覚えてますわ。阪神を応援していたから。職場の休憩時間に郵便局へ行って。
 そうですか。ここにおられたんですね。割にスポーツ界で有名な方が何人か、立命にはおられますね。
≪理工学部と衣笠絵描き村≫
(久保田) ここは、昭和24年に新制理工学部になるんですけど、戦後から(Aさんがおられた)昭和30年頃までの様子で覚えておられることはありますか。ここのキャンパスがどういうふうに変わっていったんだろうな、と。
(Aさん) 次々と何かその頃、クヌギ林はブルドーザーが来て倒していってね、初めて大きな機械でああいうことをするの、本当に初めて見ましたしね。たくさんブルドーザーが入って、衣笠山の林をね、ここら辺全部、校舎を造るために林が無くなりましてね。そして校舎が建ってきたんですよね。それで、周辺に立命はすごく敷地を広げるので、大きなおうちやらも立命が買い上げて、道隔てて3軒あったおうちも3軒とも立命の交渉で、どこへ引っ越しされたか、いつの間にか引っ越ししててね。どっか行かれたんです、3軒ともね。
 絵描きさんの家も、五、六年前やったと思いますけど、それも立命が買いましたね。猪原大華さん(注9)の家です。あるときには70人ぐらい、あまり有名でない方もその先生を師事して、京都に描きに来るとかいうので、70人近くは衣笠一帯に絵描きさんが集まっていたんですよ。だから近所も他府県(から来た)の方ばっかりでね。昔は絵描き村から静かな別荘地帯みたいに言われてたんですよね。それが今はもう。
 何しろ昔の雰囲気は無くなりましてね。校舎やら、自然が破壊されたらこんなになるんやなと思いながら。今日もぐるっと回って、ほんまにここら辺、林がありましたし、林の中で私も戦争ごっこしたりね。窪みやら、クヌギの葉っぱやら枝やら、いっぱいそこら辺にありますしね。

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【写真⑧ 現在の敬学館付近から衣笠山を望む 1940年代の風景】


≪市電北野線と勤労動員≫
(久保田) 今、ちょっとお話がでた東門のところを入ってくると以学館と志学館の間に市電の敷石があって、昭和40年に経済と経営が広小路から移って来るときに敷いたんじゃないかと。年代から、北野線(注10)を廃止したときの敷石じゃないかと。
(Aさん) そうですか。北野線ね。私が小学校のとき、時代が時代ですのでね、修学旅行というのは全然経験ないんですよ。小学校6年生も戦争中でしょう。日帰りで伊勢まで行ったときに北野線に乗ったんは覚えてますね。
(久保田) 日帰りで伊勢まで。
(Aさん) 日帰りやったんです。泊るところも無くて。朝、暗いうちに北野神社の前に集合して、北野線で京都駅まで出たんでしょうね。京都駅からどういうふうに行ったんか知らんけれども。
 日帰りで修学旅行。あとはもう女学校も高校も大学も、修学旅行の経験はありませんね。そんな時代じゃ無かったんですよ。だから伊勢でもあっちこっち行かないで、伊勢神宮はお参りさせなあかんわけですよ、学校として。あと、二見浦の辺は走ったんは覚えていますしね。海岸を。そんな時代ですね。
(久保田) 勤労動員についてはどうでしたか。
(Aさん) 私ら、あと1年上やったら、勤労動員に行ったと思いますけど。私は行っていないですね。上級生、1年上まで勤労動員、それまでに終戦になったから。
 ただ、農業のお百姓のところに稲刈りをする人がいないので、もちろん今日はどこどこの農家のおうちへ稲を刈りに行ってもらう学徒、学徒動員って言うたかしら。日帰りですよ。男の人は皆、戦争に行ってるから、女学校の私らが嵯峨野の近くの農家へ稲刈りに行ったん覚えてますわ。学校の中には学校工場というのがありましてね。嵯峨野に。プレハブの工場みたいなんがあって、その中で何かセメダインの臭いをすごく、あの近く行ったらするんやけど、見たらいけない、何やら近づいたらいけない、上級生の人はそこで学徒動員ですね。朝から何か磨いてはったんか、何してられたか聞いたことないんですけどね。私ら下級生は近づくな、近づけないという。学校工場とかいうのがありましたよ。
≪馬場ともうひとつの池≫
(久保田) 話があっちこっち飛びますが、バスプール(市バスの衣笠操車場)あたりに池があったとおっしゃっていましたが。
(Aさん) (立命館の)馬場がありましたよ。北の方に。馬が逃げ出して、林の中を走って、もう追いかけられて、夢にまで出てきたことがあります。林で遊んでたら、もう怖いですよ。大きな馬がぱっぱっぱっと林の中を走り回るから。そんな経験もありましたしね。私の思っているのは、図書館やらあったあの辺りに馬場があった。馬がいたと思うんですよ。何匹か、何頭というのかしら。馬が並んで走っていました。時々近所を走って回ることがあって。
(久保田) キャンパスの中のほうに池が二つあったんですが。
(Aさん) 奥入っていってまだ池があるのはもうちょっと小さかったように思います。この池は大きかったように思いますね、正門辺りのバスプールの辺りの池は。よく来てましたね。網を持って。
(久保田) じゃあ、魚がいたわけですね。
(Aさん) そうですね。赤ヘラとかね。池で泳いでいるものとか、昆虫とか、そういうものの名前やらはよく知っていますね。ゲンゴロウとかね。それだけ自然が豊かやったから、そういう中で育ってましたからね。
≪先生方と著名人≫
(久保田) 立命の関係の先生はご存じないですか。
(Aさん) 立命の先生は割に少なくてね、国立の先生は多かったですね。木村素衛さん、文学部の先生、京大の先生でした。あと平野先生とか。深瀬さんね。工芸繊維大学の古城先生。
(久保田) 東門を下がったところの本野先生はご存じないですか。日満に来ていた京大の先生ですけど。
(Aさん) 洋風のお家、本野さん。
 主人の父も満州から引き揚げて来て、主人も一時(満工に)籍を置いていましたけれどね、まだ飽き足らず立命の夜間に行ってたみたいです。法学部にいたと思います。
 立命はね、だから私や子供やらあんまり関係ない大学に行ってますけどね、主人の関係やとか、私が立命のすぐそばやというんで、立命ってものすごく親しみを感じています。
(Aさん) (そう言えば)この辺、大文字山もね、小学校のときは上に上がれていたんですけど、今はもう管理が厳しくなって、あんな上へ上がれないです。小学校から帰ったら、今日は大文字に上がって見ようと思って、すぐ上がってみたら、京都の町が全部見下ろせて、そういうなんをしてましたけどね。
(久保田) 前、お電話をいただいたときに、何か金閣寺が炎上(注11)しているのを見たというようなことをおっしゃってましたね。
(Aさん) 25年やと思いますわ。昭和25年、金閣寺が燃えたときに、火柱がばーっと上がっているのが2階の窓から見えてね。いや、すごい、あんなに真っすぐ上がるってすごいなと。私、まだ山城高校のときでしたね。あれ、高校生のときやと思いますわ。
(久保田) 大事件ですから。
(Aさん) この位置かぐらいに見えましたですね、火柱が。あとは爆撃とか、そんなんは受けていないけども。新緑がいい、景色のいいお部屋ですからね。
 等持院には有名な小説家か画家、小説家がおられましたね。
(久保田) 水上勉さん(注12)では。
(Aさん) あっ、そうそう。等持院のお寺にしばらく住んでおられたとか。そういう雰囲気はあるんですね。
(久保田) 石原莞爾(注13)という人物はご存じですか、戦時中の。
(Aさん) ああ、軍隊の。大きな本がありました。家に。
(久保田) 石原莞爾は一時、戦時中、立命館の講師をしていたことがありましてね。
 今はもちろんないんですが、中に日満相訪会館という建物があったんですよ。そこにしばらく住んでいまして。立命館が招聘してますから。
 そんな人が一時そこのすぐ近くに、キャンパスの中にね。立命の建物なんですけども住んでたこともあって。その関係の本を読むと、それこそ(Aさんが)おっしゃっていた、この辺りの様子が、もう林というか、森というか、もう木ばっかりで、もう……。
(Aさん) 戦陣訓とか、家で主人がそんなん集めていて、石原莞爾のこんな分厚い本もありましたね。

等持院学舎11
【写真⑨ 理工学部正門 1953(昭和28)年頃】

等持院界隈10
【図 衣笠学舎配置図『1954(昭和29)年度学生生活』より(注14)】

(Aさん)(至徳館からキャンパスと衣笠山を見ながら) ここの景色もすっかり変わりました。もう当時の様子はほとんど残っていませんね。
(久保田) 今日はいろいろ等持院学舎時代の学校とその界隈のお話を聞かせていただきました。長時間ありがとうございました。 
 じゃあ、このあたりで終わらせていただきます。

注(1) 衣笠球場
 正式には「立命館衣笠球場」。1948(昭和23)年9月に開設。立命館の球場・運動施設であったが、1948(昭和23)年から1951(昭和26)年にかけて日本プロ野球、女子プロ野球としても使用。大学野球・高校野球・中学野球や社会人野球の球場として使用された。1952(昭和27)年3月には一般の使用ができなくなり、学内関係者のみの使用となり、1969(昭和44)年頃には球場としての役割を終えた。
 
(2) 大東亜戦争  
 1941(昭和16)年12月から1945(昭和20)年8月にかけて大日本帝国とアメリカ合衆国、イギリス、中華民国など連合国との間で戦った戦争。大東亜戦争という呼称は当時の日本政府(東條内閣)による。アメリカ側からは太平洋戦争。戦後「大東亜戦争」の名称は連合国(GHQ)により禁止された。

 (3) 木村秀政 
 1904(明治37)~1986(昭和61)年。日本の航空機設計者・研究者。日本航空学会会長など歴任。1930(昭和5)年東京帝国大学航空研究所に。1941(昭和16)年7月東京帝国大学助教授を兼任。1945(昭和20)年3月に同教授。
 戦後日本の航空活動は禁止されたが、1952(昭和27)年に航空活動が許可、再開され、日本大学工学部の教授となっていた木村は再び飛行機の研究を進め、YS-11の開発を進めた。

 (4)-1、(4)-2 観光道路、きぬかけの路
 京都市道183号衣笠宇多野線。衣笠街道町(金閣寺前交差点)から宇多野福王子町(福王子交差点)に至る。沿道に金閣寺(鹿苑寺)、龍安寺、仁和寺などがあり観光道路と通称した。1963(昭和38)年開通。
 「きぬかけの路」は、1991(平成3)年に愛称が公募され、命名された。宇多天皇が真夏に雪見をしたいために衣笠山(別名きぬかけの山)に絹を掛けたという故事から。

 (5) 堂本印象美術館
 市バス・JRバス停「立命館大学前」にある日本画家・堂本印象の美術館。1966(昭和41)年10月に開館。1992(平成4)年に京都府立堂本印象美術館となった。堂本印象は1891(明治24)年生まれ~1975(昭和50)年没。大正から昭和にかけて活躍し、1936(昭和11)年に京都市立絵画専門学校教授に。のち日本芸術院会員に。

 (6) 海行かば(うみゆかば)
 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(くさむ)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ」最後は「長閑(のど)には死なじ」とも。
 太平洋戦争中の準国歌、第二国歌ともいわれた。詞は「万葉集」の長歌から採られている。大本営発表や出征兵士を送る際に使われた一方で、戦没者の遺骨を迎える際にも歌われたので、「軍歌」とする者と、「鎮魂歌」とする者がいる。

 (7) 絵描き村
 衣笠周辺は、大正時代から昭和にかけて日本画家を中心とした多くの画家が住み、アトリエを構えた。このため衣笠絵描き村と呼ばれた。
 木島櫻谷、堂本印象、村上華岳、金島桂華、菊池契月、山口華楊、土田麦遷、小野竹喬、福田平八郎、徳岡神泉などがいた。

 (8) 吉田監督
 吉田義男 1933(昭和8)年生まれ。京都市中京区出身の元プロ野球選手、監督、野球評論家。
 山城高校を卒業し、1952(昭和27)年立命館大学に入学、衣笠球場で活躍した。
 1953年(昭和28)年に中退し阪神に入団した。現役引退は1969(昭和44)年。
 その後、阪神の監督を3期務め、第2期の1985(昭和60)年には日本シリーズで優勝している。

 (9) 猪原大華
 1897(明治30)年~1980(昭和55)年。日本画家、広島県出身。花鳥草木を得意とした。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)、京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸学校)を経て京都市立美術大学の教授。日展参与を務めた。

 (10) 北野線
 京都駅を起点とし、西洞院通、四条通、堀川通、中立売通を経て北野天神(北野天満宮)に至るチンチン電車。もともと京都電気鉄道(民営)が営業し順次延伸、1912(明治45)年に全線が開通、1918(大正7)年に京都市営となった。
 1961(昭和36)年に廃止。今出川通御前東南角に「京都市電北野線記念碑」がある。
 衣笠キャンパス以学館前の敷石は北野線廃線時の敷石と思われる。

 (11) 金閣寺炎上
 1950(昭和25)年7月2日、鹿苑寺金閣が炎上。寺の見習僧侶の放火によるものであった。三島由紀夫『金閣寺』(1956年)、水上勉『五番町夕霧楼』(1962年)、『金閣寺炎上』(1979年)などの小説・作品に描かれ、また映画にもなった。現在の金閣は1955(昭和30)年に再建。

  (12) 水上勉
 1919(大正8)年~2004(平成16)年。福井県出身の小説家。『雁の寺』『一休』など多数の作品がある。10歳のとき相国寺の塔頭瑞春院に入り、その後1932(昭和7)年11月から1936(昭和11)年5月まで等持院に。このころ文学への関心が募り、1937(昭和12)年4月に立命館大学文学部に入学した。立命館名誉館友第1号であった。

  (13) 石原莞爾
 1889(明治22)年~1949(昭和24)年。陸軍軍人、軍事思想家。著書に『世界最終戦論』、発禁になった『国防論』などがある。東條英機と対立し予備役編入後、立命館大学講師、国防学研究所所長を務めた。立命館在任中、等持院学舎内の日満相訪会館に寄寓した。

  (14) 衣笠学舎配置図
 10は球場事務所、11は馬術部厩 が正しい。なお、配置図の馬場の場所は、ため池であった場所を立命館が1942(昭和17)年に取得し、馬場となった。その後馬場が移転し、1962(昭和37)年に市バス操車場として使用、現在に至る。

以上

2022年9月21日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次


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