1)はじめに
立命館中学校・高等学校は、1988(昭和63)年4月に北大路学舎(現在、立命館小学校所在地。京都市北区)で男女共学が始められ、その年の8月に深草キャンパス(京都市伏見区)へと移転しました。1922(大正11)年8月に広小路学舎から北大路学舎へ移転して以来、戦前には昼夜で約3000名を超える生徒が通う学校へと発展していました。戦後は、あまりにも狭隘な学舎のため男女共学は不可能と考えられていたのが、深草への学舎移転に先立って共学化へ踏み出したということでした。
1988年に入学した1年生女子生徒は、中学校が66名(男子は3学年で519名)、高等学校が67名(男子は3学年で847名)でした。その後、女子生徒の在籍者数は増え、中学校は2012(平成24)年に、高校も翌2013(平成25)年に女子数が男子数を上回り、現在も女子数が半数を超える共学校となっています【注1】。
そして、2014(平成26)年9月、現在の京都府長岡京市へ再び移転したのでした。今では35年前まで男子校であったことをご存じない方も増えてきています。
このようなことから、1988年入学の中高合わせて133名の女子生徒たちが、中高初の女子生徒たちと思われがちですが、実はそれより以前に女子生徒たちが在学していたのでした。
2)立命館神山中学校の女子生徒たち
その初の女子生徒が誕生したのは立命館神山(こうやま)中学校でした。戦後の学制改革で6・3制の義務教育として開設されることになった京都市立中学校は、1947(昭和22)年4月開校への設立準備が間に合わず、全市での開校を5月に遅らせています。それでも学校数が不足していたため、私学が市からの委託を受けて中学生を受け入れることになりました。京都には戦前からの中等学校や実業学校が多数あり【注2】、戦後も学校経営を継続しようと計画していましたが、新設公立学校への憧れや私学に通わすための費用の問題などで思うように生徒が集まらず、廃校となったり委託制を採用する私学の中学校がいくつかありました。立命館神山中学校は、他のどの私学よりも早く委託を受け入れていたのでした【注3】。
1951年卒業アルバムのクラス写真/写真1
神山学舎には戦前からの旧制立命館第二中学校(男子校)が、予科練や軍隊から帰ってきた生徒たちも加えて存在していました(最後の生徒は1949年3月卒業)。そこに新制の立命館神山中学校が、京都市からの委託契約によって地域の男女子供たちを受け入れて発足しました。委託であったため、家庭が負担する費用はすべて市立と同じ額が徴収され、不足分は公から補助を受けての出発でした。
翌1948(昭和23)年には、私学の男子校として立命館神山高等学校が開校されました。神山学舎は、男子高校生と男女共学中学生がともに通い学ぶ学校だったのです。
立命館神山学舎の全景/写真2
立命館神山中学校高等学校の門標/写真3
(立命館神山高等学校槙野廣造教諭の揮毫による。学校別で異字体で書かれている。)
当時の立命館神山中学校の様子を野崎龍吉教諭は次のように回顧しています。
「(昭和18年当時)この8,000坪の地は翠(すい)緑(りょく) したたる赤松の山を背にして、空気清澄、春から夏にかけては松蝉が鳴きしきり、叢(くさむら)から雉(きじ)や鶉(うずら)が飛び立ち、校庭には牝鹿が迷い込むこともある。今から考えると仙境ともいうべき閑静の地であった。校庭には、春は土筆(つくし)秋には初茸が頭を擡(もた)げ、井戸水を汲み上げる風車がゆるゆると回っていた。」
また、「中学生の主体は旧愛宕郡の八瀬・岩倉・静市野・鞍馬の四か村の組合から委託された生徒たちで、男女共学のはなやいだ気分が漂うこととなった。とはいうものの、当初何年かは男女共に、モンペ穿き、藁草履のいでたちも多かった。家庭・体育と音楽に女の先生が来任、ミシンが動き、混声合唱が校内に流れた(以下略)。」とも書いています。【注4】
1950年文化祭中学校演劇部/写真4
学校に隣接して設けられた上賀茂ゴルフ場の入口前には京都バスの停留所がありましたが、朝夕を除けば1時間に1本のダイヤのため生徒たちは利用しておらず、通学は自転車を利用するか、市バス上賀茂御園橋から25分、京福鞍馬電車(現叡山電鉄)二軒茶屋駅からならば20分を徒歩で通っていました。学校までの途中には一軒の家もなく、トラックが行き交う未舗装の鞍馬街道には砂埃や泥水が飛び交い、街灯もほとんど無いような通学路ではありましたが、生徒たちは楽しく語らいながら通っていたのかもしれません。
立命館神山中学校通学区域図
(京都市立洛北中学校開校式配布資料から作成)
校舎の隣には、後に北区の区長にもなった飯田五男(はんだいつお)校長一家の住居があり、その傍には掘り抜き井戸がありました。私設水道でここからポンプでくみ上げられた水が、学校の生活用水でした。
中学校ではこのような学校生活が送られたので、立命館神山という校名ながらも、地域の神山中学校と呼ばれる長閑な学校だったのでした。教員たちも地域の期待に応えるべく熱心に教育に取り組もうとしました。そのため、1947(昭和22)年の開設から地元小学校からの入学生は、女子も含めて順当以上に増加していきました。委託契約期限が切れて廃校となる1952(昭和27)年3月までの卒業生数の推移は以下のとおりです。
1948年第1期卒業生 75名(1)
1949年第2期卒業生225名(5)
1950年第3期卒業生123名(43)
1951年第4期卒業生100名(39)【写真1,4】
1952年第5期卒業生122名(44)【写真5,6】
( )内は女子生徒数。
1952年卒業アルバム 中3女子全員/写真5
1952年卒業アルバムのクラス写真/写真6
驚かされるのは、第1期卒業生の女子が1名しかいなかったのが、二年後には女子が学年の3分の1を超えるまでに増えていったことです。立命館神山高等学校が男子だけの変則制度ながらも、教員たちの努力によって中学校の生徒たちはのびのびとした学校生活を送っていったことだと想像されます。
委託契約期限が切れたことと学園の方針によって、1952(昭和27)年3月で立命館神山中学校高等学校は廃校となりましたが、校舎はそのまま京都市が借用するかたちで市立中学校が創設されたので、残された1,2年生は、公立中学校となった同じ校舎へと通うことになりました【注5】。立命館神山高等学校は男子校である立命館高等学校に統合されたため、立命館神山中学校を卒業した女子生徒たちが、その後にどのような道を歩んでいったかはわかりませんが、彼女たちの氏名は今も同窓会である立命館清和会の一員として名簿に記載されています。今では80歳も半ばとなったおばあちゃんが、ひ孫たちに楽しかった中学時代の思い出を語られているかもしれません。
2023年2月10日 調査研究員 西田俊博
注1;2022(令和4)年度の立命館中学校高等学校の在籍生徒数は、中学校735名(内女子384名)、高等学校1082名(内女子582名)。
注2;1948(昭和23)年度の京都府内には私学の中学校は24校存在した(元立命館中学校高等学校校長上田勝彦資料による)
大谷・京都学園・同志社・東山・平安・東寺夜間(現洛南)・立命館・立命館神山・京都・烏丸・家政(現京都文教)・華頂・京都女子・精華・光華・成安‘(現京都産業大学附属)・手芸(橘)・平安女学院・洛陽女子・両洋・淑徳女子・臨済学院・大谷実務女・聖峰
注3;昭和22年度京都の私立中学校出願者状況についての記事
「京都の私立中等学校のほとんどは三月十日から一斉に新制中学一年生の募集を開始したが、一人の志願者もないというのが数校あり、私立志願者数はすこぶる低調で、中学の将来に暗いかげを投げかけている。(中略)なお、臨済学院中、大谷中、大谷実務女などは初制中学としての募集を停止し、立命二中は最初から委託制を採用している」(京都新聞 昭和22年3月12日付)
注4;野崎龍吉「神山学舎の思い出」(立命館学園広報第21号 1972年5月発刊)
注5; 1952(昭和27)年4月に校名は京都市立本山中学校となり、同年11月には京都市立洛北中学校と改称され、1957(昭和32)6月に学校は左京区岩倉に新築移転した。立命館に戻された校地と校舎は、改修されて1960(昭和35)年に立命館上賀茂グランド(合宿所併設)となった。