専門編

ジェンダー論の学び方

1. はじめに

ジェンダーという用語は近年急速に社会に知られるようになってきました。しかしジェンダー論は、性別に関わる現象を問題にするだけの学問ではありません。むしろジェンダー論は、社会の当たり前を疑う「視座」であり「視角」です。性別に関わるものであろうがなかろうが、ありとあらゆる事柄をジェンダー的にまなざす事は可能です。ジェンダー論は、これまで見えてこなかった社会の格差や差別を検討することができるようになる、そんな物の見方です。

ジェンダーを辞書で引くと、「生物学的性差を示すセックスに対して、社会文化的性差をジェンダーという」、のような説明を見ることができるでしょう。しかし、ジェンダー論で扱うジェンダーは、こうした辞書的なものとは若干意味合いが異なります。ジェンダー論におけるジェンダーとは、社会を男と女という性別で二分しようとする思考的特性と、それを「当たり前」なものと人々に認知させる社会状況のようなものと理解できます1。ここで言う社会状況には、実態的な経済的、政治的、文化的、物質的環境の他に、認知の歪みのような認識論的傾向も含まれます。私たちは日々、男と女というものが社会的に根源的な単位である事を前提に多くの物事を捉え、理解しています。ジェンダー論が問題にするのは、こうした人間を特定の特徴で二分するような(それを二分法、あるいは二項対立的思考といいます)認知の方法なのです。その目的は、社会課題をゼロベースで、すなわち私たちが当たり前だと感じている物事の在り方にまで検討の幅を広げることによって、根源的な問題の所在をつきとめることにあります。

  • 1二分法の限界は、例えば性的少数者の問題を考えれば明らかです。石田仁、2019年『はじめて学ぶLGBT 基礎からトレンドまで 』ナツメ社

2. ジェンダー的視座を学ぼう

差別は重大な社会問題です。人種差別、国籍差別、民族差別、宗教差別、性別差別など、近年では多様な差別が日常を通じて行われていることが明らかにされています。しかし時には「私は差別をしていない。ただ、そこに違いがあることを否定しないだけだ。差別はしているが区別はしている。」といった趣旨の発言を聞くことがあります。では、区別と差別はどのように違うのでしょうか。おそらく、こうした発言にこめられた主張とは、違いを認識してはいるが、そこに優劣をもちこんではいない、というところにあるでしょう。しかしジェンダー論では、区別も問題にします。なぜなら私たちの社会には、ありとあらゆる違いがありますが、その中の特定のものだけがわざわざ「区別」するに足りる要素として認められているからです。区別と差別は違う、というのであれば、なぜあえて、特定の要素を根拠にした区別をせずにはいられないのか、を問う必要があるでしょう。

性別を例にこの点についてもう少し詳しく説明したいと思います。人間という種には、個体ごとに数えきれないぐらいの違いがあります。それなのになぜ、性別が、人間集団を分ける重要な指標の一つとみなされているのでしょうか。性別が生殖に重要な役割を果たすから?性別がアイデンティティに重要な位置を与えられているから?形質的に男女が大きく違うから?ジェンダー論ではこうした性別二元論を当たり前であって自然なものとみなす考え方に異議を唱えてきました。例えばジョーン・スコット2やジュディス・バトラー3といったジェンダー研究者らは、「なぜ男性は女性より優位に位置付けられるのか」、ではなくどのように人間は優劣を可視化し、論理化しようとしてきたのか、という問いをたてます。そして、その一つの方法が性別を用いた優劣の固定化にあると看破しました。彼女らは、男女間の優劣の根拠を探したのではなく、特定の集団が優位に立つために、性別がその根拠として用いられたのだと議論しました。極端な言い方をすれば、暫定的に優位にあった人々の特性が「男」として、劣位にあった人々の特性が「女」として整理され、固定化されていったというのです。こうした議論は、社会構築主義4という理論に依拠した考え方です。興味のある方は是非、そちらも参照されてください。

注意したいのは、ここで「男」や「女」と表現される特性は、みなさんの「男/女として」の個人的経験とは直接的につながりがある必要はないという点です。みなさんは、自分がどちらかと言えば「男性」という特性に近いから自らを男性だと考えた訳ではないと思います(女性の場合も同様です)。現代の生活においては、個人の性別は出生児の外性器的特徴を医師が判断して強制的に付与されます。みなさんは成長する中で、個々人で社会に与えられる性別を後追い(男や女の在り方を学びながら成長)してきたのではないでしょうか。しかしそこでみなさんが学んできた「男/女らしさ」とは、いったい誰の経験をもとに作られたものなのでしょうか。

ジェンダー論では私たちが普段想起する「男/女らしさ」は観念として作られたものとして扱います。ですから、「自分が女として劣位に置かれた経験はない」という感覚を持ったり、「男として優位を与えられてはこなかった」というように思われるのは当然だ、という理解になるのです。また「女性としての自分に満足しているので、劣位と言われるのは心外だ」のように感じることも何ら不思議はありません。差別の対象は、みなさんの個人的経験ではなく、観念にあるのです。これまでの人生においてその観念が、あたかもみなさんの個人的経験を説明するものであるかのようにわざわざ結び付けられ、そのことを忘れてしまうほどに自然化されてきたのです(当たり前のものは見えなくなります。自分に期待される「男/女」に違和感を覚える方は、社会的観念と個人的体験の違いに人より敏感なのかもしれません)。

観念としての男女は優劣の関係を孕んでいます。しかしそれらは実態的経験の中から作り出された優劣ではありません(ただし社会的観念を通じて実態的に身体化されます)。だからこそアメリカの公民権運動の中で生まれてきた「ブラック・イズ・ビューティフル」のように、外から与えられる優劣(この文脈では劣位に置かれる黒人)であっても、それを自分自身の経験に照らして読み替えていくことは可能なのです。しかしその可能性が開かれていることは、優劣が押し付けられていることを否定する根拠にはなりません。「女」というカテゴリーが劣位なものとして作られたからといって、「女」とされるあなたが劣位な存在である訳ではないのです。むしろ、だからこそ「女」を理由に劣位を押し付けられた時、人は憤りを感じるのでしょう。ジェンダー論が問題にするのは、社会的に作られ押し付けられる優劣であって、ジェンダー論はそれを可視化させ、問題にする視座なのです。

  • 2ジョーン・スコット(荻野美穂訳)、1992年『ジェンダーと歴史学』、平凡社
  • 3ジュディス・バトラー(竹村和子訳)、1999年『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』、青土社
  • 4上野千鶴子編、2001年『構築主義とは何か』、勁草書房; ケネス・ガーゲン(東村知子訳)、2004年『あなたへの社会構成主義』、ナカニシヤ出版

3. 具体的な問題をジェンダー的視座から捉えてみよう

では、こうしたジェンダー的視座はどのように鍛えることができ、またどのように社会を理解する際に援用できるのでしょうか。ジェンダー的視座に興味を持たれたみなさんには、是非、身の回りで目にする様々な具体的現象を、ジェンダー的視座を通じて考察してみることをお勧めします。繰り返しになりますが、ジェンダー論は性別だけを問題にするものではありません。ただここでは、議論のわかりやすさを意識して、性別を例に考えてみましょう。

現在日本の男女賃金格差は、OECDが出している2017年の統計を見ると、正社員の場合で24.5%と言われています。男女賃金格差については、女性に高い非正規率や、妊娠出産を契機とした継続勤務年数の少なさなどが問題にされてきました。また最近では、男女による昇進の速さや企業のマネージングポジションにおける男女比などが問題にされています。しかしもう一つ、ここには労働の女性化(the feminization of labor)という問題も指摘できます。これは、女性が多く従事する仕事の方が、男性が多く従事する仕事より賃金が低く設定される傾向を指す概念です。みなさんも、保育士、介護士といった仕事に女性が多いこと、またそれらの仕事の賃金が低い事を聞いたこともあるでしょう。果たして、こうした仕事の賃金の低さは、その仕事の社会的重要性や労力、能力と直接的な関係があると説明できるのでしょうか。恐らくそうではありません。むしろこうした職業は、女性が多く就業する職業だからこそ賃金が低く抑えられていると考えることができるでしょう。このように考えれば、昔は男性が従事していた仕事にも、近年では女性が担うことが増えた仕事を見つけることができるかもしれません。どうでしょう。その仕事の賃金水準は、女性が従事することが増えたことによって、上がっているでしょうか。下がっているでしょうか。同様の思考実験は、例えば外国人労働者や障がい者、あるいは低学歴者に置き換えても通用する事がわかるでしょう。

私たちの日々の生活には、差別や格差を見えなくする工夫に溢れています。女性賃金を例に取るなら、そこにはあたかも合理的な説明が提供され得るような議論に溢れています。女性による出産による離職や、専門能力の有無、生産性や需要と共有のバランスなど。しかし例えば保育士を例に挙げれば、保育士は国家資格の取得を必要とする専門職です。また近年保育士の需要は高いにも関わらず賃金水準が低いことが指摘されています。つまりこうした要因では保育士の賃金の低さを説明しきれない事は明らかです。

「あらかじめ規定された格差」が耳障りの言い表面的な理由で隠されているのではないか。こうしたジェンダー的視角からあらゆる問題について考えてみてください。どういった格差が隠されているのか、その際どのような理由が実態の粉飾に用いられているのか。この二つの問いを常に念頭におくだけでも、社会の当たり前が、大きな偏りの中、非常に人工的で恣意的に作り出されている事が見えてくるでしょう。

とりわけ、国際関係学部で学ぶみなさんには、国際問題にジェンダーの視点を持ち込めるようになる事をお勧めします。こうした考え方は、植民地経験に起点をたどるポストコロニアル理論5や、現代のアメリカ覇権に注目した帝国論などと呼ばれることもあります。また最近多くの論考が出版されるようになった資本主義批判6にも通ずることがわかるでしょう。

  • 5エドワード・サイード(今沢紀子訳)、1993年『オリエンタリズム(上・下)』、平凡社
  • 6シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー(惠愛由訳)、2020年、『99%のためのフェミニズム宣言』、人文書院

4. 日常に埋め込まれた差別・格差を考えよう

ジェンダー論は、性別を理由にした差別の解消を目指してきたフェミニズム運動の中で発展し、精緻化されてきました。ですから学術的な洗練された道具である一方、その根源にあるのは、一人ひとりがより豊かに自分に与えられた人生を全うしたいという強い個人的欲求なのです。1960年代ごろから、公的空間だけでなく私的空間における性別格差を目指した第二波フェミニズムがアメリカを中心に発展を見せました。そこで広く知られるようになったのが、「私的なことは政治的なこと(the personal is political)」というスローガンです。当時こうしたスローガンのもとに問題化されたのが、家族の在り方や家庭におけるジェンダー役割でした。性別格差は、何も国家政治や就労のレベルだけに存在しているわけではありません。それは家庭における役割であったり、またどういった恋愛を望み、どのような人間として生きていきたいのか、といった非常にプライベートな事柄にまで広がりを見せています。性別は、人間の生活の隅々にまで影響力を持っています。そのため、自分のアイデンティティの一部としての性別は、知らず知らずのうちに私たちに男性らしさや女性らしさとして特定の生き方や行動様式を求めてきます。そうした事に生きづらさを感じたフェミニストたちは、「私的なことは政治的なこと」、つまりそうした最も個人的な部分にまでも、優劣といった政治的な構造が仕込まれていることを看破し、そうした個人的痛みや苦難にこそ、政治闘争の対象を向けるよう働きかけてきたのです。

ジェンダー論も同様に、個々人が抱える生きづらさを、社会的期待と自分自身の望みとのずれとして認識します。そして個人の生きづらさの理由をその人物に探るのではなく、その人物が置かれた社会的状況に探ります。社会的期待に応えられない個人が悪いのではなく、応えられない期待を個人に課す社会を問題化するのです7

このように説明すると、なんだか無責任な理論のように聞こえるかもしれません。しかし社会に存在する問題を特定できれば、それを変化するよう社会に働きかけ、また個々人の実践を通じて変えていくことが可能です。社会は万能ではありません。多様な格差が埋め込まれていることはすでに議論した通りですが、ジェンダー論はその事に向き合い、社会の問題を特定し、その解決に向けて働きかける方向性を明らかにすることを試みる中で発展してきた理論です。すでに社会に存在することをもって「そういうものだ」、とあきらめるのではなく、すでに埋め込まれた問題を特定し、他者との連帯の中に社会を変えていこうとする、未来志向、変革指向の学問的視座なのです。

ここでは、ジェンダー論を学ぶ上で重要になる要素を3つに分けて提示してみました。1から3という数字は、何も段階を示すものではありません。1に納得する人は1から、3に考えさせられた人は3から、自分に一番響くところからジェンダー論を学んでください。

  • 7小川たまか、2018年『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』、タバブックス
執筆者:鳥山 純子
執筆日:2022年3月6日