授業レポート#05

書くことと学問の未来

論文・エスノグラフィを刷新する

超領域リベラルアーツ #01

2022年4月、立命館大学の教養教育のなかで、唯一の先端科目である「超領域リベラルアーツ」がスタートしました。受講するのは3回生以上。第一線で活躍する研究者たちが、共通のテーマについて、自身が専門とする学問領域の視点から切り込んでゆく授業内容は、学生たちに専門科目で蓄積してきた学びの相対化を促し、さらなる思考の深まりと拡張をもたらします。

今年度春学期開講クラスのテーマは、「書くことと学問の未来―論文・エスノグラフィを刷新する」。人類学、社会学、歴史学、神経科学、哲学、ゲーム研究、芸術学、国際関係学など、バラエティ豊かな専門を持つ教員・ゲストスピーカーが、「書くこと」を巡る苦悩やそれを突破した経験をリアルに語り、学問分野によってさまざまな「書き方」を紹介します。

個人的な体験を学術論文にする。
「オートエスノグラフィ」とは?

文系・理系、あるいは学部などの枠にしばられず、自由に「知」を追究する「超領域リベラルアーツ」。その最初の授業のテーマは「書くこと」。大学での学びや研究では、「書く力」が要求されます。オンラインで行われる全15回の講義を通じて多様な「書き方」に触れるとともに、豊かな想像力と自由な発想で「書くこと」、そしてそこから学問の可能性を広げていくヒントを学びます。

第9回は、文化人類学者の小川さやか教授が「オートエスノグラフィの生成とSNS」と題し、「オートエスノグラフィ」について講義しました。「エスノグラフィ」は、人類学や社会学で、集団や社会の行動様式を観察・記録する調査手法のことです。「オートエスノグラフィ」は、自分自身の経験を題材にしてエスノグラフィを書く手法で、「自伝的エスノグラフィ」とも呼ばれます。日記やブログ、書き溜めたメモ、写真やゆかりのモノなどを手がかりに、「自分自身の過去の記憶」を「今の自分」が振り返り、「自分語り」という形式で再構成するものです。

個人の体験が、学術的に意味のあるものになるのか? そんな疑問が湧くかもしれません。「重要なのは、個人的なできごとや経験を、社会的文化的文脈に広げて問い直すこと。そのためには個人的経験を理論的に『省察』するプロセスを経て、自分と社会、個別と一般、個人的なことと政治的なこととの交差点を見つけ、『再帰的』『反省的』に論じる必要があります」と小川教授は説明します。

続いて紹介されたのが、リーペレス・ファビオの著作『ストレンジャーの人類学―移動の中に生きる人々のライフストーリー』。本著は、文化人類学者である著者が「ストレンジャー」としての自身の経験を綴ったオートエスノグラフィです。

ファビオは、メキシコ人の母と韓国人の父のもと韓国で生まれ、メキシコ、日本、マレーシア、アメリカ、カナダと多くの国際移動を繰り返しながら育ちました。彼は韓国・ソウルの日本人学校中学部を卒業し、インターナショナルスクールに通い始めた頃について次のように記しています。インターナショナルスクールは(中略)多国籍の生徒のいる学校だった。しかし、その環境の中でも、私は異質な存在だと気付かされた。(中略)クラスメイトから自分は「どこの者だ(where are you from)」と問われ、「メキシコ人」と答えると名前がリーであることから「それじゃ、韓国系メキシコ人だな」と決めつけられる上に、日本人学校に通っていたことを不思議がられた。そして、「日本人」だと答えると、「名前が日本人的でない」と非難された。(中略)「you’re weird(お前変だよ)」と言われたり、「そんな人がいるわけないだろう」と言わんばかりに「bullshit(うそつき)と言われたりした。

『ストレンジャーの人類学―移動の中に生きる人々のライフストーリー』
リーペレス・ファビオ 著 明石書店、2020年

「こうした経験を綴りながら、ファビオさんは『日本人』『メキシコ人』『ハーフ』『韓国系メキシコ人』などのカテゴリー(人間分節)でくくられることに不満を感じるとともに、人が理解できる範囲の『何者か』を演じなければ、人と親密に接することはできないという理解を獲得していったと述べています。さらにこの経験が他の『ストレンジャー』にも当てはまるのではないかと考察されていくわけです」と解説した小川教授。著者の個人的な経験を「ストレンジャー」と呼ばれる人々に広げ、その人たちの実践や考えを考察したり、そういった状況を生み出す社会的文化的な文脈を批判的に考察していく。またホスト社会のマジョリティ側との「差異」を切り口にしながら「ストレンジャーの経験」とは何かを普遍化し、理論構築していく。それがオートエスノグラフィのやり方です。

「主観的でナルシスティックな自分語りに終始するのではなく、自らの経験や感情の揺れを語りつつ、さらに進んでそんな自己を対象化(客体化)し、理論に当てはめながら考察していく。それは簡単なことではありません。自身の経験が社会的文化的な文脈と結びつく普遍的な問いなのかを見極めるためには、社会や文化について深く知らなければなりません」と小川教授は言います。

小川教授が紹介するオートエスノグラフィの著作
『異文化の理解―
モロッコのフィールドワークから』

ポール・ラビノー 著、井上 順孝 訳(岩波現代選書)1980年

著者がモロッコでフィールドワークを進める中で、もがき苦しみ、考える姿を記述しています。人類学者としてフィールドワークを通して他社会を調査するのではなく、自分自身を主人公にして、フィールドワーク調査とはいかなるものかを省察しているところがおもしろいです。

『恋する文化人類学者-
結婚を通して異文化を理解する』

鈴木 裕之 著(世界思想社)2015年

文化人類学者でアフリカ研究者である著者が、アフリカで現地の歌手と結婚。現地で驚くような結婚式を体験したり、アフリカの親族関係に巻き込まれたり、異文化体験を通じて家族や共同体、アフリカと自身について考察しています。文化人類学の基礎もわかるお得な一冊です。

『ボディ・サイレント―
病いと障害の人類学』

ロバート・F・マーフィー 著、辻 信一 訳(平凡社ライブラリー文庫)2006年

不治の病にかかった著者が、身体が不自由になる体験を対象にして、病気や身体的障がいを抱えて生きている人々をアメリカ社会がどのように扱うのかを記録し、アメリカ社会という文脈で身体障がい者を巡る文化を問い直したオートエスノグラフィです。

SNSに書き込まれたコメントが
「オートエスノグラフィ」になる?
香港のタンザニア人たちの
つぶやきを読み解く。

「単なる日記やブログはオートエスノグラフィとは言えませんが、それらが集まると、『集合的』にオートエスノグラフィになっていくことがあります」と続けた小川教授。例えば料理のレシピ投稿サイトのように、共通の目的で活用されるSNSは、その集団内に分散した知識を集積・共有するプラットフォームとなります。そこで提示されるさまざまな物語の断片は、ユーザーに選別されたり改良されたりして、集団的な知識やイメージ、願望を体現したオートエスノグラフィに発展していくことがあるというのです。

小川教授は、自身が調査研究する香港在住のタンザニア人商人たちの例を挙げました。彼らはチョンキンマンションという安宿を拠点に、独特の方法で商取引を行っています。香港で仕入れた商品の写真や情報を自分のSNSに掲載し、それを見たアフリカの商人や消費者から注文を受け、販売するのです。カスタマレビューのような仕組みはないけれど、その代わりに買い手はSNSに投稿されるつぶやきや写真を見て、取引相手を見極めています。SNSに掲載される暮らしぶり、パーティーの様子や恋愛模様は「リアリティ番組」のように母国の人々に消費されています。また売り手の信頼性を担保する目的で小川教授が紹介されたり、あるいは小川教授を通じた日本人評や商人自身の伝記なども投稿されます。そうした数々の投稿が、自動的に「集合的オートエスノグラフィ」を作り出しています。

しかしSNSで紡がれる集合的オートエスノグラフィは、本来のオートエスノグラフィとは大きく異なる点があります。それは「SNSでの商品の価格情報も、彼らの日常の出来事も、人類学者である私の言動やそれに対する彼らの分析も、正確か否か、独創性か否かではなく、どれほど他のユーザーに『共有』されたかによって価値が測られることです。いうなればSNSでのやりとりは、互いの期待を読み合っているだけの、相互に受容的な行動。自分の生きている社会から自らを引き離して客観的に捉え直していくオートエスノグラフィの実践とは真逆です」

だからこそ、たった一人の経験を普遍化することには大きな意味があります。揺らぎゆく自己を起点にして他者と自己を隔てる複数の線を浮かび上がらせるものは、マイノリティの声やイレギュラーな声が埋もれてしまうSNSでは決して見えてこないからです。「皆さんもぜひいろんな形でオートエスノグラフィを書いてみてください」と小川教授は呼びかけました。

オートエスノグラフィという分野があることを知らなかったので、衝撃的な話が多かった。それが「学問」として成立していることが興味深い。研究のきっかけは日常の中の見逃してしまうような部分にもいきわたっていることを改めて感じた。

受講生
産業社会学部3回生
受講生
文学部3回生

「他者を理解する」とはなにか。異質で理解しきることが困難であるからと、そこで終止符を打つことなく、個人的・断片的な現象に対して全力で真摯に、覚悟を持って足を踏み入れ、意義を見出そうと試みないと、他者理解や幸福の実現はできないのかもしれないと改めて考えました。

「書けるものを、
書けるように、書く」
「書くこと」を磨き続けるプロが
たどり着いた「書き方」とは?

第10回は、「哲学と文学のあいだ 哲学 小説 書くことの拡張」がテーマ。哲学者であり小説家でもある千葉雅也教授が、自身の経験を振り返りながら、学生にも実践できる「書き方」を伝授しました。

千葉教授は、フランスの現代思想を研究するとともに、小説や評論なども数多く執筆しています。そんな「書くこと」のプロである千葉教授が、ある時期から行き詰まりを感じ、なかなか書くことができなくなったと明かします。「2017年10月、アメリカに滞在中、これまでどういう風に文章を書き、何に苦しんできたのか、自分の執筆プロセスを考え直しました。そこで思い至ったのが、私がいかに完成度の高い原稿を書くことに捉われてきたかということです。文章は最初から順番に書いていく。冒頭が決まらないと、書き出すことさえできない。そんな書き方は非常に高い集中力を要するし、時間もかかります。だからいつも原稿に向き合うことに強いストレスを感じていました」。何冊もの書物を刊行している教員が書くことに苦悩する赤裸々な声を聴けるのも、この授業の醍醐味です。

それをいかにして克服したのか。きっかけは、フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースの書き方を知ったことでした。「レヴィ=ストロースはその業績はもちろん、すばらしい文章を書くことでも名高い人です。彼の書き方は、あふれるままに書いてしまう段階と、それを自ら編集する段階に分けるというものでした」と千葉教授。あふれるままに書くことを千葉教授は「書かないで書く」と名付けています。そしてこの「書かないで書く」スタイルを取り入れることで、自分の仕事を変え、再び書けるようになっていったのでした。

あふれるままに書く。短くてよい。
ヘタでよい。
書くことが呼び水になり、
連想的に次が出てくる

思いつくままに自由に書いていく「フリーライティング」は、最初から順序通りに直線的に書いていく「リニア」の反対の意味で、「ノンリニアに書く」ともいいます。

千葉教授がたどり着いたのは、「書けるものを、書けるように、書く」こと。その際、字数やモチーフなどの一定の「枠」を想定し、「有限化」するといいといいます。例えばツイッターのように、140字で個区切ることで有限化されます。「断片的、短くてよい。ヘタでよい。完成度を考えなくてよい。それが呼び水になって、連想的に次が出てきます」。ノンリニアに書くことは、一見無秩序なやり方に思えますが、精神分析の「自由連想」に近いもので、この方法によって考えていることの本質に迫ることも可能になります。「それは脱秩序的、脱領土的であり、ドゥルーズ+ガタリの言う『リゾー ム』という概念につながります」と千葉教授は解説します。

テキストを編集するアウトラインプロセッサーの一つ「WorkFlowy(ワークフローウィー)」を使って実践して見せました。「WorkFlowy」はテキストを自動で箇条書きにするソフトです。

まず思いつくままに書く第一段階。「一個のトピックはそう長々とは書かない」という暗黙の字数制限(有限化)を設けます。

サンプル

  • workflowyというアプリです。
  • たとえば、こんなふうに、一行書く。それでエンターする。
  • そうすると、次の行になる。またエンター。
  • というわけで、なんとなく、思いついたことを書いていって、適宜エンターすると、それで有限化されていく。
  • まあ、字数が可変的なツイートみたいなものである。
  • 一行一行がツイートみたいな気分でやったらいい。

次に第二段階として、書いたものを編集します。前後を入れ替え、つなぎ合わせると、一項目が完成します。こうしてメモ書きからエッセイができるというわけです。

サンプル

workflowyというアプリです。たとえば、こんなふうに、一行書く。そうすると、次の行になる。またエンター。一行一行がツイートみたいな気分でやったらいい。まあ、字数が可変的なツイートみたいなものである。というわけで、なんとなく、思いついたことを書いていって、適宜エンターすると、それで有限化されていく。

千葉教授は、「書き方」を変えることで、仕事のやり方が変わっただけでなく、それまで抑えていた、自身のアートへの関心を再び呼び起こすことにもつながっていった。仕事、生き方の方向性まで変わったことを明かします。

また「書き方」を変えることは、ある学問を支えていた「インフラ」を変え、学問そのものを刷新していくことに関わっていくといいます。「何でもいい。思いついたことを書いてみましょう。そんなものが論文や芸術になるのかと思うかもしれません。しかしモノをつくる人間になるということは、客観的な評価より以前に、まず誰よりも自分が『一つの作品をつくったのだ』と認めることです」と力強く励ましました。

一旦自分から出たものを信じてあげる、という部分に共感しました。どうやって書くか、どうして書くのかも大事ですが、自分から出た言葉を一旦信じて、出してみて、そこから修正を加えればいい、という言葉が私自身のこれからの書くことへの抵抗感を消す予感がします。

受講生
経済学部3回生
受講生
経済学部3回生

自由連想で想起された一見全然関係ないような事柄から、自分が気付くことのできないような発見ができるかもしれないということに非常に納得しました。まずは考えを吐き出してみる、という考え方を、ゼミなどの研究で使ってみたいと思いました。

「書くこと」を自由に変えることで
豊かな学術的発想や
学問領域を開拓できる。

第14回「ディスカッション-書くことと学問の未来」では、これまでの授業を振り返り、学生それぞれの「書くこと」について考えるとともに、プレゼンテーションやディスカッションの方法にも議論は広がりました。

15回にわたる授業に登壇した教員陣は、いずれもそれぞれの専門分野で「書くこと」を徹底的に追求し、自らの文章を磨き上げています。その書き方や文章は、驚くほど多様です。

「書くことには厳密なルールがあるけれど、それを超えることで豊かな学術的発想や学問領域を開拓できます。専門を学ぶ学生にぜひそれを伝えたい」と小川教授。「書くこと」が学問の未来まで変えていく。そんな可能性を感じ、学生が改めて「書くこと」と向き合う機会となりました。

立岩先生の授業について
「書いて遺す」というお話がとりわけ印象に残りました。私自身が歴史学を学んでいることもあり、人の生きた証を遺すために、書き記すということは大変有効な手段の一つであると感じ、興味深く思いました。

受講生
文学部3回生
受講生
産業社会学部3回生

後藤先生の授業について
レポートを書くとき、ネットで論文を探して参考にすることが多く、一次資料にあたったことがないと気付いた。今後は参考にした論文の参考文献欄にも着目し、様々な資料にあたったうえで自分で総合的に分析する姿勢を大切にしたいと考えた。

美馬先生の授業について
普段理系のテーマに触れる機会がほとんどないので、講義内容のひとつひとつが新鮮でした。私たちは失敗の歴史を乗り越えて築かれた現代医学の恩恵を受けていますが、それでも過去の非人道的な実験を見ると、医学に関しても成果のみを求めるのではなく、倫理的な視点を持ちながら発展を目指すべきであると思いました。

受講生
産業社会学部3回生
授業に登壇した教員10人が書いた11冊
竹中悠美
『風景の人間学: 自然と都市、そして記憶の表象』
三元社 2020
マーティン・ロート
『世界のなかの〈ポスト3. 11〉ヨーロッパと日本の対話』
新曜社 2019
岸政彦
『東京の生活史』
筑摩書房 2021
後藤基行
『日本の精神科入院の歴史構造 社会防衛・治療・社会福祉』
東京大学出版会 2019
立岩真也
『不如意の身体 ―病障害とある社会―』
『病者障害者の戦後 ―生政治史点描―』
青土社 2018
阿部朋恒
『スマイルズという会社を人類学する-「全体的な個人」がつなぐ組織のあり方』
弘文堂 2020
美馬達哉
『感染症社会 アフターコロナの生政治』
人文書院 2020
小川さやか
『チョンキンマンションのボスは知っている―アングラ経済の人類学』
春秋社 2019
長瀬修
『わかりやすい障害者権利条約―知的障害のある人の権利のために』
伏流社 2019
千葉雅也
『現代思想入門』
講談社 2022