高等教育の機会均等を求めて

自由主義とアカデミズム

西園寺は、立命館の賓師の一人であった江馬天江に立命館再興を誓う手紙を送ります。
西園寺は、10年におよぶフランス留学で、西洋の自由主義精神を身につけて帰国します。その彼を待ち受けていたのは、政府の弾圧を受けながらも必死で闘う自由民権運動の人々でした。西園寺は、彼等に請われて東洋自由新聞の社長に就任し、自由民権運動に大きな役割を果たします。
その後西園寺は、外交官生活を経て、1894(明治27)年に第二次伊藤内閣の文部大臣に就任。その政治姿勢は、自由主義・国際主義に則ったもので、日清戦争の勝利に酔う国粋主義的な当時の風潮とは相反するものでした。
この文部大臣就任中、彼の秘書官となったのが、先に述べた京都法政学校の創立者・中川小十郎。小十郎の父・中川禄左衛門が、西園寺の討幕軍に従軍するなどの縁もあり、小十郎は西園寺に親しみを感じ学生時代から知遇を得ました。そして、秘書官になってからは、精神的な結びつきはいっそう強いものとなります。
自由主義的な気風に満ちた西園寺と中川の二人によって成し遂げられた業績は数多くあります。例えば、その一つに京都帝国大学の設立があります。当時、ただ一つの官立大学であった東京帝国大学は、政府の高級官僚養成のための学校という感がありました。そこで西園寺は、政治権力と一線を画した自由でアカデミックな、大学が必要と考えます。中川は、初代の大学書記官(現在の事務局長相当)として京都帝国大学設立のために力を尽くしました。
京都帝国大学設立を果たした中川は、西園寺を追うように官を辞し、実業界に活躍の舞台を求めます。加島銀行理事、大阪堂島米穀取引所監査役、朝日生命副社長と中川は、その実力をいかんなく発揮しました。


勤労青年たちに勉学の場を

しかし、そうしたなかで彼の心を曇らせたのは、向学心に燃えながらも機会を得られない勤労青年の姿でした。前途有為な青年たちに勉学の機会を与える、社会に開かれた学校をつくりたい……中川の教育への情熱は、抑えがたいものとなってゆきます。中川は、京都帝国大学の木下廣次総長をはじめとする諸教授に相談し、彼等の賛同と協力を得て、私立京都法政学校を創立します。財政面は中川が、教育面は京都帝国大学の諸教授が担当し、初代校長に富井政章を迎えます。中川は、学監として学園の運営に力を尽くしました。


ページトップへ