時代の潮流への抵抗と国家主義

第一次大戦から第二次大戦にかけて、世界と日本の歴史は激しく動揺しました。立命館もこの時期に、自由主義と国家主義の両極を揺れ動いたといえます。
1930年代になると、軍部やファシズムが台頭し、言論や思想に対する弾圧が強まり、学問の自由に対しても不当な干渉が繰り返されるようになります。文部省は、京都帝国大学法学部の滝川教授に対し、その学説に非難を加え、1933(昭和8)年5月に休職命令を出しました。この処分に抗議して、法学部の全教員が辞表を提出、当局との全面対立に発展します。結局39人の教官が辞職し、立命館はこのうち18人を教授・助教授として迎え入れました。
ファシズムに敢然と抵抗し、学問の自由と大学の自治を守り抜こうとした学者たちと、彼等を支えた立命館。この事件は広く学界とジャーナリズムに影響を与え、それ以降の抵抗運動に対して無言の励ましとなったのです。
しかしこの事件で迎え入れた憲法学者の佐々木惣一学長も、天皇機関説の余波で辞任に追いこまれます。その頃からの立命館は、禁衛隊の活動などで、顕著な国家主義的傾向をしめしました。それでも、困難な戦時中にも、立命館に学問の灯をともし続けた良心的な研究者・教育者たちがいました。


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