〈立命館 その由来の碑〉
衣笠キャンパスの正門を南に入った正面に碑が建っている。碑には次のように記されている。
殀壽不貳修身以
俟之所以立命也
立命館 その由来の碑
今や立命館はゆるぎないものとなりつゝある この名は日本近代の幕あけとそ
の建設に大きな役割を果たした西園寺公望が一八六九(明治二)年に同志を糾合し
て邸内に開いた私塾にはじまる それは中国古代の革新思想を代表するひとりで
あった孟子のことばから採られている
殀壽貳わず身を修めて以て之を
俟つは命を立つる所以なり
生涯公望に師事した中川小十郎が一九〇〇(明治三三)年京都法政学校(後に大
学)の創立後まもなく一九一三(大正二)年立命館大学としてその名称を受け継いだ
のであった わが立命館の第二世紀初頭にあたり父母教育後援会の貴重なお申出
を受けてこの石碑が建てられる
二〇〇一年 春 立命館総長 長田豊臣 記
「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」は、今井凌雪(本名)潤一の揮毫。裏面に氏の略歴がある。立命館大学法文学部経済学科卒業(1949年)、日本書芸院常務理事 日展理事
建立 二〇〇一年 春
贈 立命館大学父母教育後援会
立命館創始一三〇年・学園創立一〇〇周年・立命館
アジア太平洋大学開学を記念して
初代会長 植村仁一
二代会長 小川正義
三代会長 垣内 剛
四代会長 宮本郁夫
「立命」の名は、『孟子』盡心章の「命を立つる所以なり」から採られた。「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」の読みと解釈については議論があり、読み方によって解釈も異なってくるという。「殀壽まどわず」「殀壽うたがわず」「殀壽たがわず」。大正2年12月の財団設立時の中川小十郎の演説、また大正10年6月号の『立命館学誌』にその読みと解釈があるが、『立命館百年史』通史一は「殀寿まどわず」と読み解釈している。
<立命館由来記>
西園寺記念館に架けられているこの扁額は、「立命館由来記」とされている。大きさは縦45㎝、横100㎝であるが、実はもとの木刻大扁額がありこの倍の大きさである。
扁額には、大正2年12月13日、本学が財団法人立命館として設立され、その発表式に寄せられた西園寺公望の祝辞を立命館総長中川小十郎が謹書したとある。中川小十郎が館長から総長となったのは昭和6年7月であるから、扁額は後年作製されたと思われる。
もとの木刻大扁額は「公撰文立命館大学々名由来の記」として、昭和16年の「西園寺公を偲ぶ展覧会」に出品されている。
財団法人の設立とともに、大学の名称が京都法政大学から立命館大学に、中学が清和中学校から立命館中学に改称され、文字通り西園寺公望の私塾立命館が継承されたのである。
その発表式に西園寺公望が祝辞を寄せ、その祝辞を西園寺公望の実弟で立命館の理事であった末弘威麿が代読した。
代読された祝辞は、『立命館学報』第1号(大正3年2月)に掲載されている。下記がその全文である。なお、扁額は細部でいくつか祝辞と異なるところがある。
祝辞
明治の初年余私學を京都に開き名を命じて立命館と曰ひ學を講じ道を論じ以て世の進運に裨補せんことを期せり其後故ありて中絶し其名虚しく存せるのみ數年前丹波中川小十郎君京都法政大學を創むるに當り余に其匾額に題せんことを求む余仍りて立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし君の力に依りて其實の擧がるを喜ぶの意を表せり匾額は不幸祝融の災に罹りて滅せりと雖も校運は益隆昌に向ひ次で中學を附設し稍其體を成せり今次其組織を改め財團法人と爲すに及びて余が前きに書せし所の題字を采りて其名稱と爲せり余は是に於て乎益其名實倶に永く存するを喜ぶ思ふに今日の學は開物成務を以て要と爲すと雖も修身立命の工夫亦閑却すべからず必ず忠信の行ありて實用の才始めて其功を成すことを得自今斯校に遊ぶ者深く思を此に致さば其違はざるに庶幾からん法人立命館の成立に際し聊か其名稱の由来を叙し以て祝辞と爲す
大正二年十二月十三日
正二位勲一等 侯爵 西園寺公望
文中に「立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし」とあるのは、明治38年4月に立命館の名称を継承することを許諾し、寄贈した扁額のことである。この扁額は明治41年12月に広小路学舎が火災となり焼失したため写真のみが『立命館学報』第1号に掲載されている。
立命館
往年余興一校名曰立命館及游學泰西校廃名存頃者京都法政大學々員來請襲用其名余喜名
之得實乃書匾額以與之孟子曰殀壽不貳修身以俟之所以立命也盖學問之要在于此矣
明治三十八年四月
侯爵西園寺公望
今回は「立命館」の名称の由来に関するモニュメントについて紹介した。
2021年11月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次