立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2024.02.14

公式YouTube配信動画「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪」のご紹介

 「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪」という題名で、立命館 史資料センターの公式YouTubeチャンネルに二つのビデオを投稿しました。この動画では、立命館衣笠キャンパスの建物に使用されているタイルに焦点を当て、その由来や特徴などを紹介しています。
「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 基本編」https://youtu.be/qYOjP4-_b9E
「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 もっと泰山タイル編」https://youtu.be/lVCYBF4bOxA

 衣笠キャンパスのタイルとは、あの地味な建物の外壁に使われているタイルのことです。
 衣笠キャンパスを知っている人が思い浮かべる、茶色のような灰色のような色をした、あの建物の外壁には、実は特別なタイルが使われているのです。

youtube動画紹介「泰山タイル」1

 そもそもの事の始まりは、史資料センター職員が衣笠キャンパスで目にする外壁タイルの美しさに惹かれ、調べ始めたことによります。

 そのタイルが、清水焼の流れを汲む伝統的な手法を用いた手づくりの京都産タイル「泰山タイル」であることがわかり、また、タイルを製造していた泰山製陶所が1973年に閉所していることから、衣笠キャンパスの建物に使われているこれらのタイルは、かつての伝統技術によって作られた貴重なものであることが分かったのです。
<学園史資料から>衣笠キャンパス校舎の泰山タイル

 近年のレトロブームとともに、ますます注目される近代建築にとって、タイルは欠かせない意匠です。現在ではタイルそのものに注目する人も増え、様々なタイルを見て回る、街歩きのイベントなども人気を集めています。
 また、衣笠キャンパスにおいては、2023年に開催された「京都モダン建築祭」に以学館(外壁の一部に「泰山タイル」が使用されている)が選出されるなど、立命館の建築物も近代建築という視点で注目され始めています。
 しかしながら、これらの事柄はまだまだ知られていません。
 史資料センターでは、立命館のキャンパスの美しいタイルをもっと多くの人に知ってもらいたいという思いから、衣笠キャンパスのタイルの魅力を紹介する動画を制作しました。

 今回は「泰山タイル」の生みの親、池田泰山の孫であり、自身もかつて泰山製陶所にてタイル作りに携わり、現在は集成モザイク作家として活躍されている池田泰祐さんにインタビューを行いました。
 動画では、「泰山タイル」の詳しい解説とともに、衣笠キャンパスのタイルを実際にご覧いただき、立命館に使用された「泰山タイル」の特徴や、タイルから伺える事柄や印象などをお話ししていただいています。

 動画タイトル「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 基本編」では、「泰山タイル」の歴史や衣笠キャンパスに使用されているタイルの特徴などを紹介しています。
 動画タイトル「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 もっと泰山タイル編」では、全てが手づくりというタイルの製造工程なども含め、より詳しく「泰山タイル」について紹介しています。
どちらの動画も4分程度でご覧いただけます。

 これらの動画は、映像制作会社ドルフィンスルー株式会社の代表、横川隆司氏の協力のもと、撮影・編集共に史資料センターの職員が行いました。
 今後も「泰山タイル」に留まらず、より多くの人に知って欲しい立命館に関することについて、動画配信も活用しながらわかりやすくお届けしていきます。

2024年2月14日

2024.01.24

今治市河野美術館所蔵「西園寺公望資料」(その1)

 愛媛県の今治市河野美術館に、西園寺公望資料が所蔵されています。美術館には今治市出身の河野信一氏の収集による資料およそ1万点が収蔵されています。河野信一氏は大正9年に帝国判例法規出版社を創業し、傍ら古今の筆墨典籍類を収集していました。そして昭和43(1968)年に今治市に一括寄付をしています。
 その中に西園寺公望の書幅・書翰・俳句短冊など9点があります。
 このほど美術館を訪問しましたので、今回は、そのうちの俳句短冊1点と書幅1点を紹介します。
 書幅の翻刻と、詩意註解の出典紹介については、立命館 史資料センターの職員によります。

今治市河野美術館 西園寺3
【写真 左:不讀俳句短冊、右:木内老兄宛書幅 今治市河野美術館提供】

 ≪不讀俳句短冊≫
  大磯にて
   花水を渡て来たか春嵐  不讀

 不讀は西園寺公望の俳号です。大森不入斗の望緑山荘時代(明治26年頃~)から使っていた俳号ですが、この句は大磯にて詠んでいます。
 神奈川県の大磯は、歴代の内閣総理大臣が8人も邸宅(別邸)を構えた地ですが、西園寺は明治32年末から明治45年頃まで住んでいました。伊藤博文の別荘滄浪閣の隣にあったことから「隣荘」と呼んでいました。
 西園寺公望は俳句にも並々ならぬ才能を発揮していましたが、この句は、のちの『陶庵公影譜』(昭和12年審美書院)の「公の俳句」にも公の代表的な十数句のなかに取り上げられています。

 ≪木内老兄宛書幅≫
 翻刻: 清風定何物可愛不可名所至如君子
     草木有嘉聲我行本無事孤舟任
     斜横挙杯属浩渺楽此両無情帰
     来雨携渓間雲水夜自明 中流自偃仰適与風相迎
         木内老兄 属 大正戊午■日 公望書
 詩意: 
清風と云うものは定んで何物である、但是れ愛すべくして何物と名くることは出来ない、至る所嫋嫋と吹いて君子の如く人に快感を覚えしむ、又風の為に草木も嘉聲を発する、我が一行は本より無事の人である、孤舟に乗じて舟の斜横に一任する、而して中流に於いて上下を偃仰する、適ま風と相迎へて、杯を挙げて以て浩渺に属する、此を楽んで人も境も共に無情である、両渓の間を帰り来れば、雲も水も夜自然と晴明である
 岩垂憲徳・久保天隨・釈清潭註解『蘇東坡全詩集』第三巻

 この書幅は、「木内老兄」に依頼されて揮毫したものです。木内老兄とは、木内重四郎と思われます。木内は明治30年代は農商務省で局長の任にあり、第一次西園寺内閣の年(明治39年)には朝鮮の統監府農商工務総長として赴任していました。そして大正5年4月から大正7年6月まで京都府知事を務めています。
 この書幅は大正7年に書かれていますが、4月に木内知事は京都府の先賢慰霊祭を行い、山縣有朋とともに西園寺公望も参列しています。
 前年には大京都市計画を立て、秋には京都の清風荘に西園寺公望を訪問しその計画について話しています。この大京都計画は、7年4月1日に周辺の十数町村全域と数村の一部を編入して面積2倍以上となる新京都市が発足しました。
 木内知事はその6月に事件に巻き込まれ京都府知事を免官になりますが、その際にも清風荘に滞在していた西園寺公望に挨拶に行っています。
 この書幅が揮毫されたのが、木内知事在任時のものか、その後かは不明ですが、木内重四郎に依頼され贈ったものであると言えるでしょう。
 (木内重四郎の履歴については、一部、馬場恒吾『木内重四郎傳』(昭和12年ヘラルド社)によった。)

2024年1月24日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.12.27

<懐かしの立命館>中学生横綱誕生 ~旧制立命館中学校相撲部の歴史から~

⑴ 相撲部の創部
 旧制立命館中学校の相撲部は、1916(大正5)年10月、学校創立十周年記念に際して創設されました【注1】。部長は体操教員の佐藤薫之助【注2】が柔道部との兼任で務めていました。大学相撲部は翌年に誕生し、その6月には常設の土俵場を完成させ、嘱託として元力士の二宮慶次郎氏を顧問に迎え人気は一気に上昇したとの記事が見られます【注3】。9月以降から積極的に角力(当時は相撲との両表記)大会に出場し、11月には堺大浜で開催された関西学生角力大会に佐藤教諭引率で参加し、5年生の小野田康雅が3勝して四回戦まで進出しています【注4】。
 当時の中学生が大学生よりも実力が上であったことは、立命館大学相撲部史のなかで次のように紹介されています。
 当時は立命館中学も現在の大学と同じ構内にあったので、一つの土俵を中学と大学とが共同で使用していたのであるが、中学生の方が主であって、大学生はいわば中学の土俵を間借りしているような存在であった。土俵の主催は中学生のものだけあって、当時の立命館中学の相撲部といえば荒削りの猛者ぞろいで、大学選手よりも中学選手の方が強いので、一緒に練習をきらった大学の部員たちは、中学生が練習を引き上げた後に小さくなって練習をやっていたのである。もちろんこの時代の立命館中学は、全国中学相撲のA級中のA級で、1923(大正12)年に全国大会で団体、個人共に栄冠を獲得している記録をみても、いかに強かったかが想像されると思う。【注5】
横綱誕生1
【写真1 新設土俵と相撲部「立命館中学の過去現在及将来」1918年3月発行
写真中央の右が部長の佐藤、左の着物姿が顧問の二宮】

 1920(大正9)年6月、相撲部教授に朝日松仙太郎【注6】を嘱託してからは更に実力をつけて活躍を重ね、同年10月には大阪毎日新聞主催の京津(京都対滋賀)相撲大会で4年生の林英智【注7】が個人優勝を果たしています【注8】。

⑵ 黄金期と中学生横綱誕生
 1921(大正10)年には1月17日から29日まで柔道剣道部と共に寒稽古を行っていて、その時の相撲部は最多の40名が参加しています。参加者が柔道部35名、剣道部38名であったことから、当時の相撲部は最も人気のある部であったと思われます【注9】。
 1923(大正12)年になると相撲部は更に華々しい活躍をしています。6月の近畿中等学校相撲大会(大阪医科大学主催)では五人抜き勝負において児玉龍雄【注10】が勝利。10月に京都府立医科大学で開催の京津中等学校相撲大会では、団体の部で東山中学校の三連覇を阻止して優勝。次いで個人決勝戦には6名中4名が立命館の選手で、優勝した小林潔には京都市長寄贈の日本刀一口が送られています【注11】。次いで11月には堺大浜で開催された全国学生相撲大会(大阪毎日新聞社主催)に出場して団体個人共に優勝、優勝旗と堺市から刀剣が寄贈されました。個人で全勝優勝した小林潔【注12】に対しては吉田司家より横綱の授与がありました【注13】。
 この栄誉に対し、11月27日午後、北大路の新学舎は未完成で3年生までしか移っていなかったため、広小路学舎の校庭で祝勝会が開かれています。そして12月8日には横綱披露の相撲大会を京都府立医科大学校庭で開き、試合の後に優勝三選手による横綱土俵入りが行われました。写真は、その時の優勝を祝して作成された記念郵便はがきと立命館学誌(第67号)です。

横綱誕生2
【写真2 全国大会個人優勝で横綱を授与された小林潔】
【写真1】に写る生徒たちとの体格差は歴然としている。

横綱誕生3
【写真3 団体優勝の三人 右から磯部二郎、小林潔、児玉龍雄 】

横綱誕生4
【写真4】横綱土俵入り 中央が横綱小林、太刀持ち磯部、露払い児玉選手
(立命館学誌 第67号)

 その後も相撲部の活躍は続き、1927(昭和2)年10月には全国中等学校学生相撲大会に小林宗次、仲田謹治、奥村雄三のメンバーで団体戦に出場。小林は個人戦でも気を吐いたという記事が残されています【注14】。また、1931(昭和6)年10月には中等学校相撲大会(日本学体育会主催)を立命館大学の前庭に急造した土俵で15校参加のもとで開催しています。立命館中学校は団体3位となっています【注15】。

 戦前にこれだけ順調であった中学校相撲部でしたが、創立者中川小十郎が2度目の校長に就任した頃から学校の方針が変わり、1935(昭和10)年には野球や庭球、陸上、柔道などと共に相撲は学校として認められない運動になってしまいました。中川校長が保護者に説明した理由は次のようなものでした。

 この学校では運動といふものを、全然認めないのである。野球も、庭球も、陸上運動も一切やらない。何人かのものは運動を楽しみ、後の大多数のものが、応援団などといって騒ぎまはるのはくだらぬことではないか。この学校では運動はやらないが武道をやる。武道は精神の鍛練にもなるからである。武道の内剣道をやる。柔道はやらない。柔道は武士道鍛練の正規の課業になっていないからだ。相撲もこの点、疑はしいからやらない。ただ弓は盛にやっている。【注16】
 
 
 こうして全国各地から生徒が集まり、中学生横綱まで輩出して全国に名を轟かせた立命館中学校相撲部は、時勢をみた校長の独断ともいえる決定によって消えていくことになったのでした。
2023年12月27日 調査研究員 西田俊博


注1;「立命館中学の過去現在及将来」(1918年3月発行)
注2;佐藤薫之助(1887年生) 
  岡山県出身で東京体育会体操学校を卒業。1907年に入営し1909年に退営。1915(大正4)年9月に立命館中学校へ勤め、1918年3月退職。
注3;立命館学誌第11号(1917年7月発行)
これによれば、二宮氏は四股名を関の戸と名乗っていて、この時の出場生徒(部員)は50名に達したと記されている。
注4;立命館学誌第13号(1917年12月発行)
注5;立命館大学体育会「体育会の歩み」第1集、相撲部の歴史
注6;朝日松仙太郎(1880年生)香川県出身。東京で田子ノ浦部屋に入門し、柴山という名で三段目まで進出したが、体調を崩し廃業。地方相撲で朝日松と改名して巡業を続け活躍。引退後、京都に移り住み、1916年から第三高等学校相撲教授に嘱託。
注7;林 英智(1921年3月卒)
  長崎県立長崎中学校3学年を修了、立命館中学校の補欠試験に合格し1919年4月、
  第4学年に入学。入学時17歳。在学中柔道初段。早大工科へ進学。
注8;立命館学誌第34号(1920年11月発行) 
注9;立命館学誌第37号(1921年2月発行) 
注10;児玉龍雄(1925年4月中退)
  和歌山県海草郡の高等小学校第1学年修業、立命館中学校の補欠試験に合格し1922年4月第3学年入学。入学時18歳。
注11;立命館学誌第66号(1923年11月発行)
注12;小林 潔(大正13年3月卒)
  和歌山県立商業学校第5学年修業、立命館中学校の補欠試験に合格し1922年9月第4学年入学。入学時19歳。大阪大学医科へ進学。
注13;立命館学誌第67号(1923年12月発行)
  吉田司家は、相撲行司の家元で、横綱免許の証状を与えていた。1951年まで力士・行司を全国的に支配していた。 
注14;立命館学誌第109号(1927年12月発行)
注15;立命館学誌第148号(1931年12月発行)「日本学体育会主催」は原文のママ
注16;立命館禁衛隊 第63号(1936年4月発行)
  新入学父兄に対する中川校長の挨拶

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